マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

『学融』のネットワークをつくりたい

人文学が役に立たないというスローガンに飽き飽きしている。

「人文学は役に立たない」、具体的には「金にならない」先入見がある。社会人は少しでも「社会の役に立つ」ビジネス本や自己啓発、成功者の人生道徳から借りたことばを振り回す。それらの現代的な知のみなもと、企業や宗教、マスコミには、「書物を出版し、情報を循環させ、利益を得る」という目標があるのだから仕方がないことなのだが、「正しい」とされることばは、その時どきでもっとも勢いがあって、「儲かりそうな」ことばである。しかしながら長期的には、その見通しは誤っていることが多い。

その了見、言説が「なぜ」生まれたのか、広範囲にひろまるのか、何回も繰り返すのか……そうしたことをつねに考え、日常を生きるのは賢明だが、そうした人文学的な生は「利益にならない」。「儲かる」ことばは、つねに誰かに隷属し、おこぼれに与り、自分の思い通りになる前に自滅する……「なぜ」と思う隙もなく、「何々だから」という生をわれわれに強いるだろう。社会人の目に触れるような書物、情報は、何とかような即席知にあふれていることか。

いっぽう研究者も金が欲しいくせに、「人文学は役に立たない」ことを言い訳に、初めから分かりやすく書物を書かない。前提となる知を共有しないまま、先人の考えを消化しきらぬままに、センセーショナルな流行に飛び付き、追従し、失望する。「金にならない」高尚さに陶酔しながら、「なぜ」を忘れている……つまり人文学は役に立たない、『だから』という主張をみずからに強いることで、人文学的姿勢を放棄している。

「儲かる」ために必要なのは、人びとの社会的なつながりである。それもSNS という現在進行形の、ある意味不確かな結束だけではない。歴史や哲学、言語を通じて社会や風土を考える営み、すなわち「人文学」の積み重なりが可視化され、貢献もまた見通されねばならない。

かつて金融機関が金を集め、貸し出し、殖やして社会に貢献した時代があった。これからは人文学の情報が集められ、産学官にあまねく利用され、さらにその成果のネットワークにより情報が集積される『学融』が、情報生産業、大学や研究所、美術館や博物館に意識されるべきである。学融は学問分野の融合でもあり、学問成果の融資であり、そしてなによりも「学友」としての和をもとに、人文学が役に立つためのビジョンである。

 

つまるところ何が言いたいのか。新入生の「お友達作り」の心配をするお節介を焼きながら、奨学金漬けや就職難で研究者を磨り減らし、就職予備校と化すことで無駄な学部や設備、名誉職のお粗末な埋め合わせをするような現在の高等教育は、「研究力」という瞬間時速だけではなく、景気次第でまなび自体が潰れてしまうような状況を生み出しやしないか、ということです。