マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

人文学的「情報機関」について

 人文学はただ専門的に研究されるだけではなく、それを総合的に集約し、分析する場を必要としている。

 

 再三述べてきたことだが、文系学部の知識は役に立たないといわれる。歴史や哲学、文学は、娯楽や教訓くらいにしか認識されていない。大学院に進学し、専門の研究を行うキャリアパスも存在するが、日常生活とは徹底的に無縁の領域と見なされている。こうした無関心のため、大学院生や研究者の苦境、資金や出版などの環境の悪化は、改善される気配がない。

 

 それは、第二次世界大戦以前の人文学的教養が、西洋文明に追いつくための模倣と、その反動としての国粋的、東洋的なものの賛美という極端な二極化傾向にあったことと無関係ではない。科学技術文明を取り入れるという拙速な動機のため、伝統的な人文学ははじめ迷信として退けられ、ヨーロッパの目を通した「神秘的」な現象や、国民国家を発展させるための「道徳的」な規範のフィルターでろ過された言説しか評価されてこなかった。

 

 人文学が活きるべき言論の場である、大学やジャーナリズムすら、明治維新以降、科学技術を学修するシステムのついでに急ごしらえで作られたものに過ぎない。伝統的な精神に規範を求める「教養」とその抵抗として広範な影響力をもった「大衆文化」が、マス・メディアの勃興とともに爆発的に拡がっていった。これはヨーロッパでも共時的に進行しており、全体主義プロパガンダの時代を経て、戦争による破局的結末を迎えるまで、時事教養がオカルトや陰謀論、精神論などの大衆煽動と混在して摂取されてきたのである。

 

  そうした事実を無視して、ただすべて終わってから「私は内心は全体主義に抵抗してきた」と弁明する人間が、ジャーナリズムでもてはやされ、社会的に是とされてきた。「勝てば官軍」である。のど元過ぎれば何とやらということで、大衆煽動は変わらず喧伝されつづける。大衆煽動や群集心理を嘲笑するように見えても、知識人自体がその陶冶の過程で(自覚するかはともかく)精神論などの理不尽な行動様式を刷り込まれているため、根本的に改まることがないのだ。

 

 戦後体制でもその傾向は変わらなかったように見える。センセーショナルな報道、学歴学閥社会、サブ・カルチャー的大衆文化……復興、成長のためにはつねに新奇な情報が求められ、伝統的な人文学はますます沈潜していった。新興宗教原理主義が停滞テロリズム世代間対立、東京一極集中、研究領域の細分化といった要因が積み重なり、学際的かつ大局的な見通しのもとで学問を行うことは難しくなっている。

 

 そのいっぽうで、近年(コロナウイルスの情報氾濫によって霧消してしまったが)フェイク・ニュースやファクト・チェックといった情報の質が問題とされることがあった――結局、既存の「権威」への服従、営利を追求した末に無軌道に拡張したソーシャル・ネットワークへのマス・メディアのやっかみ、ささやかな抵抗の域を出なかったのであるが。

 

 当事者は「フェイクニュース」撲滅や、「衆愚政治」打倒といった大義名分のもとで情報を選択していると思い込んでいるが、その実態は選別、検閲、弾圧、集団煽動の衝突であり、「魔女狩り」や「神仏分離」、「赤狩り」、あるいは話題の「自粛警察」などと変わらない狂信である。そして最たる問題点が、これらの時事的トピックにせいぜい通説的「群集心理」「民衆的心性」とかは引用され語られることはあっても、歴史や人文学の最新的な研究結果が援用されることがなかったのである。否、豊富なリソースを参照するだけの知的なインフラが整備されていないのである。

 

 戦国や幕末を描いた小説やマンガ・アニメは人口に幅広く膾炙しており、「クール・ジャパン」などと観光などに宣伝することは行われている。たとえば、「応仁の乱」がベストセラーになったときは、関連書籍が雨後の竹の子のように出てきた。ギリシア・ローマや三国志の英雄、フランス・ドイツなどへ親近感を抱き、世界史を勉強する御仁も多い。しかしそれは遠い世界の出来事であり、現実世界の問題に資する知的集積として分析することについては考えられていないだろう。

 

 人文学は「鏡」である。しかしそれは教訓とか「あの人種、国家、民族はこういう歴史的経緯をもっている、歴史は繰り返す」といった偏見的見地ではなく、万人がこれから直面しうる問題として、最悪の事態を経験する前にアクセスしうる知識として利用できる教養であるべきだ。むしろ前近代的な口承を含めたリテラシーは、国家や民族、宗教といった排他的な枠組みではなく、緩やかなネットワークとしてこの役目をはたしていたはずなのである。読み書きの「教育」が文明化の責務とともに強制されたとき、こうした文化は破壊され、忘却されていった。

 

 スパイや工作員デマゴーグが暗躍するような派手な「情報機関」でなく、現今の問題にたいする相互認識、共通理解の向上に資する人文学的「情報機関」を構築することが、ポスト・コロナ、ポスト・ソーシャル・ネットワークの時代に求められるだろう。本研究所は、実のところこうした構想のもとで設立され、研究を進めてきた。前に述べてきた、参考文献のリストや研究を売り買いして地域社会や企業広報などの活動に役立てる「学融」「学行」構想も、また説話の型に古代中世の交易路や神話の影響を認める論なども、人文学的「情報機関」のために準備してきたことなのである。

 

 古くからあるもの、今あるものを効率的に活用できる知的なネットワーク、インフラ作り、などというものは、国や実業家、一部の大学が推進するような、海外の真似をして新しいものを大量の資金をかけて導入する潮流から真っ向と対立しており、賛同者を得られる自信もないことなのであるが。