学融商品論ーー不可視の大学、または図書館
前まえから考えてきた学融機関について、少しずつ計画をはっきりさせていこうと思う。
書籍がなぜ売れないのか、高校生や大学生のレベルがなぜ低いままなのか、人文学はなぜ社会の役に立たないのか……ほとんどの意見は文句を垂れ、問題を先送りにしたまま現在の出版物や、学生たち、そして人文学そのものを社会に送り出してしまった。
発展とはいわないけれども、これからの社会を維持していくには、未来の人文学の見通しや、拡散してしまった人文学的情報、情報の受容者となるべき社会人を再編する産業が不可欠である。
日本各地、あるいは世界を巡り歴史を訪ね余暇を楽しみ、「学び直し」、リカレント教育で理解を深める。そして得た知識や人脈が、ふるさと納税やSDGsなどの投資や、仕事上で出会うあらゆる人びととつながる助けとなる。そうした生活様式が今後の主流となるとかつて私は考えていた。しかしながら、今の状況ではそれぞれの計画がバラバラで、結局役人がいたずらに疲弊し、学者が短絡的に非難するいつもどおりの政策となりそうである。そうこうしているあいだにも、無教養な人間も教養のある人間も使い潰され、巷にはしょぼい金の使い方で見栄を張り満足する人間が幅を利かす。
「民芸運動」ではないが、日本各地の文化財や文化的サービスを集積し、社会に発信するための土壌づくりをしなければ、いくらカネを使って街おこしをしようが、または予算を切りつめようが、街全体、社会を益するには至らない。
書籍や文化財、サービスを、ある主題、活用計画のもと、研究する「セット」、それが学融商品である。インターネットやソーシャルメディアで計画書を発信し、それぞれの調査を編集しあい、スポンサーに提供する。大学や図書館はこうしてつくられる知のネットワークのなかに遍在するようになるだろう。そこで人びとはいわばノマド的に学びへと没入し、みずからの知を更新していく。
さて、かくして生み出された「学融商品」だが、これからの学術研究はみずからのアカデミックな正当性や正統性ばかりでなく、人びとの耳目を集めるような表現方法がもとめられるだろう。客観性と観客性のはなしにうつらねばなるまい。