唯劇論――情報文化圏交渉比較言語人文学の立場で
情報文化圏交渉比較言語人文学という長ったらしい名前を冠して自らの専門領域としたのは、高度に専門化して周りを見渡せないほど多岐に分かれてしまった人文学のあり方へのささやかな抗議からであった。もっと簡明な仕組みですべてを把握できはしないか――そうした知的欲求は、オリエントとインド=ヨーロッパ、そして東洋文化のある種の同源性から、刻々と移りゆく時間や空間を「こよみ」、「風土」と捉え改変するメカニズムの考察を経て、ある帰結をもたらそうとしている。
以上に述べ来った私の姿勢を、ひとことで言い表すとすれば「唯劇論」である。実体があるとか、はたまたそれが幻であるとかいうのは、視覚以前に(視覚は重要なファクターではあるが)「ことば」による境界づけがあってこそのものだ。「ある」という事象の解明は、一まとまりの空間や時間に跨ったことばによる明確な「訣(わけ、logos)」を思索することこの他にない。しかも、それは文学的に書かれ仕組まれた作為としての「劇」よりもより広範な、劇的で劇症なことばの拗れ、絡み合いが見いだされうる上で、生き生きと我われの前に現れるのである。
こうした劇を構築するのは、「訣」へと扮するためのさまざまな「面」と「舞台」である。統一された理論を据えるうえで看過してはならないありのままの「個」や「自然」と、集合体として見えるところの「役わり」「ことわり」との挟間に、かくなる「劇」の装置が存在する。視覚偏重、文字言語優位の文化では、劇はもはやことばとは見なされず、なにか実際の個人や団体、およびかれらにまつわる「道具」などの「原理」「力」に帰されることだろう。しかしながら、唯劇論の立場では、明確な――つまり、大文字であるところの――個人や団体は、扮される「役わり」にすぎず、原理、力も筋書きとしての「おことわり(Apo-logy)」にすぎない。そこには不定形で、限界、境域(margin)にあるようなものごとしか存在せず、それらは扮することで、なにがしかを分かち合い「劇的に」あらしめられる。その間際で作用するのが「面」となることばであり、「舞台」となる風土やこよみや社会の階層秩序といった習慣的な知、つまり境界である。
人間はロゴスを持つ生である。往古の出来事を劇的なロゴスとして再生(revival)することで、戦争や商業、農耕や学問といったほんらい不定形な営為を定型化し、より大きな集団で協働せしめることが可能となる。役わりになりきるという劇的な思考により、「契約とその履行」への信仰が生まれ、現世利益、極楽浄土などを約束する権威、宗教という「ことわり」を作りだしてきた。それらにまつわる語りはことばによる境界付けによって、時間や空間を分断することとなった。
そしてそのことわりも、社会や歴史の変動により劇の享受層がひろがり、または履行が危ぶまれると、信憑性の希薄な「変化(へんげ)、怪異」へと語りの暴落を引き起こす。修辞的「たとえ」の存在も、語りとその共同体の信のあり方によって大きく変わっていく。近現代の商工業者たちを主体として繰り広げられてきた劇、たとえば「科学知識」や「貨幣経済」は世界の隅々まで広がり、もっとも成功した劇的隠喩(たとえ)であるといえる。それまで各地域を支配してきた神話や伝承などは、「解釈」の名においてそれらに蹂躙された(ようであるが、じつはおおもとの「科学」や「経済」のなかにひそかに再生されている。やはり「名前」で分かたれ、分かち合われているように見えても、もともとは生とはマージナルな営みなのである)。
ことばの文法も、もちろん印欧語族等々の「語源」は数あれど、名詞や動詞の考え方に対象と音声や記号を合致させ、そこに空間的・時間的ひろがり、一種の普遍的な「もの/ことの重み」を考量する(penser)はたらきがあることを忘れてはならない。「面」としての劇的なことばが、舞台や筋書きとしての劇的なものごとを包み込む入れ子構造、「文=多重(モンタージュ)」によって、境域や限界はあきらかに境界づけられ、一応は「あらしめられている」のだ。そこの考察には、哲学、宗教学、民俗学、神話学、歴史学など人文学のあらゆる領域の知を拾い集め、「唯劇論」として再構しなければならない。このブログでは、さまざまな試みによって(人間の「根源」ではないが)書物未生の「劇」のあり方について考察している。