マツノヤ人文学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

ポスト・オリエント学序論――ユーラシアを見据えて(未定稿)

 

この記事は以下の構想への「オリエンテーション」です。

matsunoya.hatenablog.jp

 

わたしは人文学をたんなるオカルトやファンタジー、イマジネーションの産物とみなす姿勢からきりはなす必要があると考えています。また、民族や宗教、国家、文明といった「近代」をこえることで、人文学が真に人びとに資する糧、「教養」になりうると考えています。

そのためには「活字文化」と、それ以前の「書字文化」にある種の懐疑をもたねばならないでしょう。「なぜ書かれなければならなかったのか」という問いは、「古典文化や口承文化は書字文化以前の原始的なすがたをとどめている」という固定観念を捨て去って、あらためて問われる必要があります。

「書く」という行為には一見、文字として、あるいは書物として広い空間に伝達し、のちの時代に伝承するという意図があるように感じられます。しかしながら、文字や書物という媒体のもつ権威性、規範性は、むしろそうした意図を裏切るようにはたらくのです。正当かつ正統な「解釈」は、文化が伝達され、伝承される範囲をみずから狭めることとなることは、歴史が証するところでありましょう。

そのため、おおくの文化がその実態を狭めに狭められた結果、局地的なものとみなされ、それぞれの地域や時代の「極致」と考えられています。文化が真であり、善であり、美であるひとときは、しばし一瞬のひらめき、輝きのようにとらえられ、あとは鈍い闇の中に吸い込まれていくかのように思い描かれます。しかれどもここでは、むしろ闇のほうが、つまり光を包む暗闇をどう言語化せしめるかが重要となってきます。

ここで、「たとえ」の効用を考えずにはおかれません。なぜ空間の関係を言い表すことばと、時間の関係を言い表すことばと、人間の関係を言い表すことばが共通した語彙で言いなすことができるかは、たんなる比喩という文飾をこえて、人間の営みの根幹にかかわる視点をわれわれに与えます。

一体いつから、どこで、植物や動物の成長と枯死と、夏至冬至をめぐる季節の循環、人間社会の転変、ひとりひとりの人間の生老病死、それに真偽、美醜、善悪が結び付けられてきたのでしょうか。「占う」「予言する」といった見通しへの欲求がなされた地域や時代を挙げることができます。そこではことばの塊が、「詩」として発せられ、あらゆるものごとの「見通し」、つまり境界はどこにあるのか、という答えとして機能してきました。詩はいつしか規範となり、権威となり、その集合体は「法」として歴史や社会を統べる精神となり、いつしか「神」として敬われることとなりました。長い歴史の中で、信仰は「見当はずれ」のために棄てられ、詩が「悪」「醜さ」「過ち」へと追いやられることもありました(いっぽう真実の「見通し」の積み重ねがある程度完成した状態が、現代の科学という学問であり、管理体制をそなえた社会と体系的な歴史記述を促してきた、といえるでしょう)。

もちろん、ここで述べた書字や詩にかんする考察は一般化したものであり、地域や時代によって差異はあるでしょう。さりながら、あらゆる思惟が、見通しの外にあるものを、いわば風土化するかたちで包摂し、文化へと紡ぎあげていく、そうした基本的な図式は揺るがしがたいものであります。

その中で、光と影のコントラスト、陰陽というイメージは、その善悪や真偽という意味の転用をふくめ、オリエントからユーラシアへの時間的、空間的拡がりを想起させるテーマです。勉強不足で拙劣な論をお見せするかもしれませんが、人文学を作り上げていきたいと思います。