マツノヤ人文学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

分化する暴力:間名差し論

古来より哲学は渾然一体とした「一者」のようなものを根源として思考してきた。しかしながら、一がなぜ多に分かれるかについては、いまだに「悪」のような分化を仕向ける対向者を仕立て上げ、「一者」への回帰をうながすような筋立てに終始するものも少なくない。それは古代、中世、近世、近代、古今東西あらゆる学者が嗜好してきた物語であって、純粋に観客としてみるならば食傷してしまう落としどころだろう。

とはいえ、小論が二千有余年の伝統芸能を覆すような新奇を表現しうるとは考えられない。そもそもの「一者」的なものが暴力のかたまりであって、つねに分裂し、間(ま)を際立たせるような衝動に満ちている、ゆえに少しでも間の細分化を食い止めるための言語(ことば)がもとめられた、という主張は、おそらく腐ったトマトを投げつけられるような陳腐なものだろうし、ビッグバンや階級構造がすべての始まりだと考える自然科学、社会科学からは「間違いなく」失笑を買うかもしれない。しかして、一なるものが多なるものより善いものであるとするならば、一なるものはそのままとどまってもよいのであるし、多なるものが善いのであれば、一なるものなど考えだされなかったのである。そこに「まなざし」、視覚的な混乱に起因する、命名行為の連続であり、暴力的な劇があるからこそ、一なるものと多なるものは現われ出であったのである。

不安と笑い。社会的関係群からは「まれ=間生れ」なものをまなざし、不安や笑いとして告発するという形式は、暴力からの分枝としてさまざまな名でよばれている。法外で例外的存在、神霊やまれびとに扮する技……それは従属や排除を象徴する一儀礼であり、共同体意識の現われとして位置づけられる。Logos、よりわかりやすく弁別するならばVerbumかつRatioたることばは、その文法的形式と文学的内容においてかくなる暴力を体現してきた。

近現代はことばへの探究もそこそこに、もっともらしい科学や政治経済、大衆文化なるものに扮したこれらの祭儀を継続させてきた。その分化の諸相を記述するのが哲学的歴史学の要諦なのであるが、はたしてこれが受け容れられるときがくるのかがわからない。

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