「こよみ」と「風土」……人文学の根源
「書く」という行為が「人間」の社会と歴史に従属されてから久しい。「記録」「書字」「芸術」は、もう長い年月人間の想像力や理性といった責務にがんじがらめにされてしまい、著作権や個人情報といった見かけ倒しの管理技術、空虚な亡霊につきまとわれ、ごく少数の者にしか見いだされない悲しむべき現実を生んでしまった。
人びとは他人と文化的にかかわり合いにならなくても、学校で教わるいくばくかの実用的科学知識さえあれば、あるいは満足に読み書きができれば、社会と歴史の担い手になれる。かような幻想は、自分の身の回りの環境と、そしてゴシップとしかいいようのないジャーナリズムにしか興味のない人びとが政治活動において何事をなしたか、その問いによってたやすく打ち砕かれるだろう。みずからの仲間うちにしか通用しない論理と常識をもって、短絡的にものごとを判断する人間のいかに多いことか。他人と交流を図ることを怖れ、何事につけ否定する人間のいかに多いことか。かれらは知識をいちど手放し、再びまなぶことをしない。外面を若さや新奇さで飾るものの、知は使い古されすでに老いている。
いちばん使い古され、老いた知といえば、精神や理性、美といったあやまった一般化、偏見だろう。人間の文化からそれらを見いだすことは、民族や国家、その他諸々の社会を愛する人びとなら自明のことではあるが、ものごとを考えつくすのを放棄した言い訳にすぎない。早い話が、精神や理性、美といったものに原因や理由を帰することによって、多数派であろうが少数派であろうが、無自覚にいまの枠組みや手法を是認することに他ならないのだ。
精神、理性、美において優れることを名目に、人びとは教え、研究し、学ばせる。それは今生きる社会の善さに何らの異議を唱えぬばかりか、大多数の人間にそれをあらためて考えることすらさせないような知識ばかりである。知識が活用される機会などはない。ありきたりの態度でものごとを考えるかのようにふるまえばよい。真に必要なのはそこから生ずる責任や権利、義務といった束縛であり、それ自体は精神的、理性的、美的とは程遠い、殺風景な管理技術、実用性なのだ。そうして苦労して維持した精神、理性、美であっても、災害や戦争などの変化ですぐに通用しなくなってしまう。人びとは忘れ、新奇に飛びつく。そのため、精神、理性、美という亡霊との戦いを宿命づけられている。
人文学がそうした知から距離をおくにはどうすればよいか。神話や祭祀儀礼、歴史、社会、芸術はつねにそこの「こよみ」「風土」に即して、あるいは抗って展開されることが、精神、理性、美といった「オールシーズン・オールウェザー」の知で強調されることは少ない。「こよみ」「風土」といった管理技術、実用性において自然を把握することは、ともすれば呪術的、迷信的と退けられるかもしれないが、分類や象徴のもっとも根本がそこに起因するばかりではなく、政治や言語活動の根源についてじつに興味深い考察をわれわれにもたらすだろう。「書く」「劇的な身振り」といった物語る行為は、自然の猛威や人間の営みに向き合うためのつながり、見通しとして機能するはずである。
具体的な時間や空間の見通し技術が、いかにして抽象化された時間、空間に変容し、共同体的労働を管理するためのフィクション、精神、理性、美などといった社会的関係になっていくかを考察する……それは地球環境の変化を恐れながら、その実画一的かつ季節外れの生活様式を維持する建前にすぎないような、「季違い」で独善的な知に変化を促すことにつながってゆくと思う。