マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

理想の文化‐文法事典

 ことばが具象的な表象から抽象的な表現に移行する過程を、一冊の本にまとめてみたい。

 

 神話上の神格や怪物が、卑俗な昔話、迷信を経由して、日常的な科学知識や現象に移行する過程は、文法の大衆化、文語から口語への選好の変化と軌を一にする。長いスパンの変化を記憶するための文法から、より瞬間的な表現法への移り変わりは、たとえば並列的に確実性の所在をあきらかにする接続法や仮定法が失われつつあり、より単純で直列的な、過去・現在・未来の系列へと再編される傾向によって見て取ることができる。

 

 これは、事象が「ある」こと、またその対極として「ない」とされることについての性質の変化とも見なせる。この言語上の特質を考慮に入れずして、たとえば哲学上の「存在」に関する学説の「誤り」をあげつらうことはできない。翻訳の過程や、已上に挙げた言語の通時的な変化によって、事物の名称を取り巻く環境は容易に変化してしまうからだ。

 

 また、洒落や擬音語、擬態語による連想も、これを幼稚なものとか原始的なものとは一概にいいきれない。言語におけるこれらの連想は、きわめて強力に物事を説き語る原動力となりうる。幼児が「ブーブー」や「わんわん」に関する体験を親と体験したいときや、酒席での駄洒落、さらに下痢止めの薬を「ゴロピタン」と名付ける意図など、これらの本来の作用は、文脈が語り手と受け手に共有されるときにしか成功しない「説き語り」なのであるといえる。

 

 これらのときには荒唐無稽な言語のつながりが、宗教や通商関係を介した話型などの往来を説明し、(たとえば貴種流離譚の大元は仏教説話であって、そこに聖徳太子や俊徳丸、北条時頼水戸黄門などそれぞれの時代的条件のもとローカライズされたのだろう)その規範がやがて宗教的タブーや起源譚と結びつけられ、あるいは積もり積もって「文法化」するのだ。

 

 文法構造と文化体系の比較研究……外国語を文字の種類や単語の並びという、記録媒体に依存する事項ばかりを見て「異なる」と即断するのは時代遅れの手法である。それは漢字やヒエログリフをその形象から判断し、あるいは逐語的に置き換え、解釈したと思い込んでいたルネサンスの神秘家と同じ轍を踏んでいる。その言語が何によって伝わり、何を伝えてきたのかを総合的に勘案することによって、翻訳の精度もさることながら、異文化理解を深めることができる。