マツノヤ人文学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

言語:信用とあそび

 これの続き。

matsunoya.hatenablog.jp

 

 言語は「信じられていること」の体系である。それはちょうど貨幣や金券のように、その共同体の空間的「境界」と時間的「限度」を維持しながら表象され、やり取りされている。貨幣だと「信じられていること」は、貨幣だと「信じられているもの」を用いて、対等なモノやサービスを受けることのできる境界と限度をその額面のなかに表示する。貨幣は、より時間のかかる商取引や法などの言語によるシステムを端的に簡略化した事象であるといっても過言ではない。

 

 従来、言語は「記号」や「物語」という側面で、しかもどちらかと言えば信じられている「͡こと」よりも信じられている「もの」に主眼を置き分析されてきた。なにが「実在」か「虚構」か、あるいは「迷信」とか「狂気」とかいう思考の正常性を中心としたラベリングは、その代表的な手法である。そしてその基盤には、ある実在するものにはある発音可能な音声や意味といった「もの」が一対一で符合し、あらかじめ実在する国家や民族、職業集団などという事象下において異なる名付けが行われうる、という「常識」が前提する。

 

 「記号」、または「物語類型」という考え方は、まるで言語がミノムシのように偶然周囲の「もの」を寄り集めた集合体であるという思いなしを抱かせる。そして類語辞典や逐語的で拙い翻訳に代表されるような、ことばどうしの「もの」としての「代替可能性」を強めさせることとなる。

 

 「記号」という観点からすれば、医学的な臓器も、社会的なシステムも、古いものから新しいものへ同等に「代替可能」である――近現代はこの無批判で乱暴な論理展開によって、何人もの人間を死においやり、文化を消滅させてきた。その事象が「信じられてきたこと」としてかつて有してきた信用、宥(ゆる)してきた境界と限度を無視し、新しい事象へと取り換えた。結果、理想的な記号は実際の境界と限度にそぐわず、欠如が欲望を、欲望が発明を生み出すこととなった。そして、信用という「こと」を深く考察することなく、新奇な理念が事実として以前の事象に適合するかという、ある意味原始的な方法――意味とか意義とされるものをもって、信用なる「もの」の代用としたのである。

 

 意味や意義は、「流行(はやりすたり)」するものである。それは学問の領域にまで染みつき、かつて聖なるものが持っていた信用を、乱雑に記号化し拡散する。元が聖なるものなので仕方がないことなのだが、人びとはそれにわけもなく畏怖し、安定が必要だとして、復古を賞玩する。しかしそれも流行の裏返し、意味や意義の一側面にすぎない。

 

 学問のためには、あらためて言語の考察が必要である。とりわけ、信用について考えることは、言語がこれまで考えられてきたように直線的な時間の流れ、対立したり一致したりする点としての個々の視座ばかりでなく、「分岐すること」をその本性としていることへと思い至らせる。

 

 この「分岐」に鋭敏であるのは、伝統的な文語、雅語である。ことばが原始的な文学、歌物語から発生したその原初から、分岐が巧みに用いられてきた。

 

 歌謡は、マツリゴトという「信じられてきたこと」における、ものごとの価値を問う技巧である。名前を名乗らせ、あるいは名付け、行為を包み隠さずに暴露するという「あけすけ」な歌謡は、それが現実のあるがままのなりを表現するにおいて、しかしながら現実とは一部遊離した「仮構」を介している(これは古代からの修辞や、中世社会のシャリヴァリ、近代からのジャーナリズムにも通ずる)。

 

 一般名と固有名のはざまにおける婉曲表現は、敬意にも皮肉にもなりうる。また、行為の時間的経過や確信も、伝達される現場に居合わせていなければ、伝達者の意図に適う理解はされえない。そうした「あそび」を補うための「あそび」として、「もしも」という仮想や、「ならば」という条件、「まるで」という比喩など、「仮構」という形の分岐が歌謡に組み込まれている(英語ならば、WouldやCouldの用法と一致しよう)。そうした表現で古典的な素朴さ、アルカイックさが尊ばれるのは、現在を言い表すための一種の仮定的分岐を、もっとも効果的に「演ずる」ことばが古典的な文語、雅語であるからだ。

 

 そうして限られた集団内でのみ通用した言語が、より大きな共同体のうちで共有され、「信用」される現象は、ことばの形態が絶えず古び、変化していく「文法化」というプロセスとして認識されるであろう。学校での文法教育も、口語と伝統的な文法の比較を通じて、「矯正」ではなくこうした「ズレ」の考察に向いていれば、実り豊かなものとなるにちがいない。