マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

韮と丹生(草稿)

 吉野裕子『陰陽五行と日本の天皇』の中に、中臣寿詞の解釈が出てくる。

 

 そこで問題とされているのが、天孫の統治に必要な「天津水」を得るために、秘義とされている「韮と竹叢」の意味である。玉櫛を占庭に挿し、祝詞を唱えると韮と竹が生えてきて、そこを井戸として湧き出る水が「天津水」なのだという。

 

 吉野は五行説の火金干合から、そして唐の『酉陽雑俎』から韮の伝承を引き、この記述を説明しようとした。

 

 「竹」が「高」ないし「多賀」という地名を経て、「辰砂」や「水銀」産地と関係があるのではないか、という愚考を前回述べた。「中臣寿詞」にも、「…大倭根子天皇が天つ御膳の長御膳の遠御膳と、赤丹のほにも聞こしめして…」と、丹の存在をほのめかしている節がある。「韮」も水銀関連の符丁では、と考えていると、以下の記事を発見した。

 

joho-kochi.or.jp

 

 韮とは、もともと一般名詞的な「根・菜(ネ、ナ)」であり、地中に埋まり、あるいは露出しているものを指していたのが、細分化された「ニラ(ヒル)」に象徴され、儀式に用いられるようになったのではないだろうか。しかし元々は丹(ニ)を念頭に置いた儀礼だったことが想像される。おそらくこれは汞(コウ、胡孔切、上)と薤(カイ、胡介切、去)という漢字のレベルで結びつけられていたのかもしれない(苦しいが)。

 

 私はそこに、穀霊やマレビトの行き来以前の祖先の転生観を見る。金属の精錬過程に、死者の再生が重ね合わされていたことは、鍛冶の神金屋子神が死の穢れを厭わなかったことに現れている。そしてそれは、実際に辰砂がミイラを作ったり、殺菌のために用いられることで、「不老不死」や「再生」というイメージを形成していったのだ。国の地下水の中に「天津水」を入れ、新たに即位する天皇の支配儀礼とするのは、大体このようなところから出て来たのではないだろうか(あるいは、全然根拠はないが、酒造の過程で発酵をコントロールしたり、色味の調整をするために実際に辰砂を入れたりしたのかもしれない。ローマでは質の悪い葡萄酒を発色させるのに鉛が用いられていた)。

 

 そして持統朝にはじまったとされるこの「寿詞」は、壬申の乱による不破関封鎖と、聖武天皇南宮大社における大仏建立の勅願(メッキに大量の辰砂が必要)などに象徴される、辰砂の時代をまさに体現する儀式だったのだ。

 

 「ニライカナイ」も、「丹生い金生い」する「根の国」が異界と捉えられていたことを伝承のうちにとどめている。それは、農耕社会が、漁撈民や狩猟民、鍛冶などとの交易や協働で成り立っていたことを考えさせられる。彼らがコミュニケーションを行い、共通の権威なり語りを生み出すためには、観念の複合――比喩や象徴が不可欠であった。