マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

あらためて

 今の今までだれも交差させなかった分野を混じり合わせることで、正しいとは言い切れないが、今までにない可能性を切り開くような人文学を欲している。

 

 このブログで追究してきた、「文化の類型が広がる背景にはある種のグローバリズムが介在している」というテーマは、これまでいくつかの可能性を提示してきた。天文学の情報のある程度の共有、鍛冶や採鉱、アマルガムなどの冶金文化の信仰文化への流入、インド洋やシルクロードの交易と説話の関係などは、多くの先人の事績を追いながら、モザイク状に推論されるものである。

 

 従来の人文学観の「農耕社会」偏重は、古典教養の農耕民重視のヒエラルキー、方向づけに従って、産業革命啓蒙主義革命による資本主義や民主主義、植民地主義という「国民政治・経済」形成にともなって、そのカウンターカルチャーのごとく成立したものである。

 それらを主導してきた裕福な商工業者のなかで、文献による記録を校訂し、出版し、読書するということが「教育」によって当たり前になると、それまで文字化されなかったかつての職人や商人たちの慣習はステレオタイプ化され、「起源」「精神」「神秘」「美」などという美辞麗句のもと、文字記録のなかの「古典教養」とはことなる「民俗」として、それらが本来持っていたネットワークとは切り離されたものとなってしまった。

 「古典教養」と「民俗」「大衆文化」のあやふやなつながりは、産業革命以前の人間の商工業と農業のかかわりを、上の美辞麗句もさることながら、民族や国家という「現在」を参照し、強引に関係づけることにあった。古代、有史以前、超古代といった先取性が強調されるいっぽうで、中世や近世といった、古典のイメージをときに歪曲しながらもそれらの言語文化を守り伝えてきた時代の存在を無視し、植民地や周縁の地域を「原始」と一括りにし、現実のイデオロギーヒエラルキーを持ち込むこととなった。科学文明や民主主義を主とする近代人とは相いれない「迷信」をもつ、権威主義的な古典教養、そして無学無文字の農民や野蛮人の民俗をアーカイブ化し、人類の根源を「まなぶ」ことが近代人への順化、教育に利用された。

 

 その結果、人文学は細切れに分断され、自国自民族しか見えていない、あるいはつられて他者も虚像化、理想化してしまうような言説が横行することとなる。帝国主義の亡霊は、そのまま先進国の幻影として、地に足のつかない政策や政治主張へと知識人を引きずりこんでいく。ここ数年、数十年の精神的な思潮で物事を覆すとしても、それは大海原にさざ波をゆらめかすような皮相にすぎない。

 ここで取り扱うような神秘主義や冶金文化、言語、墳墓や都城の土木事業にかんする偏見も、古代人が漠然と抱いていた畏れと、ジャーナリズム的批判はそれほどことなるものではない。その時々の知識人が、その時々の論理や権威に追従して、卑賤視したり迎合したりするだけなのである。

 

 背後に隠然と存する通時性、広域性は、まさにその論理や権威によって閑却されるものなのである。いま、「ミトラス教とはローマのノマド的な商工業者、軍人に信奉された芸能的な儀礼であり、遠く日本の舞楽面にも信徒の序列が引用されているように、猿楽・狂言にも間接的に影響を及ぼしているのではないか」とか、「たたらの送風や足踏みが舞踊や音曲の文化と密接に結びついており、神ののこした足跡や、雨乞いのための反閇などの呪術芸能は、かつて自然の雨風で炉を動かしていたことと関わっている」などの仮説を考えている。おそらく部分部分では唱えている先人もおられるだろうが、当時の社会観、偏見によって構成できなかっただろう。

 

 現代の消費社会によるイメージの粗製濫造、枯渇――マンガやアニメによる引用は、取っ掛かりとしてはよろしいが、研究としては深刻な停滞を引き起こすだろう。いっぽうでこうした統合をめざし、たかだか数百年でスタミナ切れを引き起こしている近現代の社会構造、地域性を、かつて迷信として放棄した中世以前の広域性、通時性への知見によって見直すことで、自己と他者の対等な関係によるグローバル社会の維持へとつなげることを企図している。