マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

書くこと、欠くこと

おおよそ研究や論考というものは、文字で伝えざるを得ない。くわえて「教える」という現象は、現代ではほぼ文字を介して情報を受け取り、発信することに特化してしまっている。

文字をもたない文化が、はやく文字化されることが求められ、ソーシャルネットワークサービスでは一挙手一投足を文字にして拡散することが良しとされる。こうした書字文化の最終的な到達点はどこにあるのか。

文字で書き残すということは、てっきり多くの人に読み伝えられることを目指すものだと錯覚してしまう。それはまったくの妄想である。文字というのはせいぜい書いた人間の記録の痕跡にすぎず、そこになにが書かれているかは文字を共有した人間にも、当の書いた人間にも完全に把握されることはない。このすれ違いは文化や教育といった緩やかな「書く」運動によって掻き消され、欠けてしまう。つねに誰かの眼に観られているという安心感を錯覚するのだ。文字は万人に画されているようでいて、その実みずからを隠している。この事実がもっと公然となってもいいように思う。

真に伝わるのは、その場の興に適合するように演技された「劇的な」しぐさをふくむ情報である。雄弁術や狂言シャーマニズムは学問や芸術、宗教といった近代の「書く」文化をこえた、劇とか儀礼がもつ共同体への作用を我々に提示する。

書く時点で、所謂フェイクをファクトとして信じこむことを要求されているのだ。一見しぐさを明確に写し取れると思われる写真や映像も、絵画や版画と同様にその場の興からは断絶してしまっている。だから発信するもの、受信するものは、個人として信用や責任を負わねばならない。

しかれども劇的なしぐさは、漫才や芸能にいたるまで、そうした作者や読者の責務とは(ほんらいは)隔絶したところにある。劇的なしぐさに興奮したり、笑い、怒り、涙するといった集団感情に溶け込むことは、一番手っ取り早くみずからの「もっともらしさ」「まともさ」を装える行為である。

しかし書くというフィールドにおいては、劇的なしぐさへの惑溺は、個の放棄、全体主義への同調となってしまう。信用や責任の外に置かれる……むしろ、特定の集団のなかで、不定冠詞を冠せられるような名もなき存在となることが、道化の特権や卑賤視の根源にあるといってもよいと思う。書く行為は、信用や責任を崇拝するかわりに、劇的なしぐさを辱しめ、衰微させてしまった。

ソーシャルネットワークは、ただ人と人とがつながるだけでなく、文字や画像映像といった書く運動を介することによって、社会から劇的なしぐさを排除する試みである。否、声や身振りといった劇的なしぐさを、書く行為に隷属させる歴史の延長線上にあるというべきか。今何をするか、という欲望ですら信用と責任を要するものの、何を行うかに必然性はないし、誰もそれを解しない。声や身振りまで、個に差し出され、誰にも把握されない闇へと掻き消されていく。