マツノヤ人文学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

変化(へんげ)と人文学……考えることを病める社会について

われわれのすまう生には、たえざる変化のうちに、恒常性が仮構されている。かたりは、「変わらない」とされる知識のうちから、「移り変わる」世界を観察する……といったかりそめの姿をとって、言説をきずきあげている。

アルカイックなものと考えられていることこそ、かりそめのものであることを覚悟しなければならない。アルカイックからモダン、周縁から中心へと語ろうとする「宇宙論」のもつ傾向が、恒常性といったフィクションに充ち充ちていることを考え抜かなければ、その考えはありふれた知の複製品でしかないだろう。理性や美、精神的な価値でほかの知をなみする奔流によって、近代以前の多くの知が分断されてしまった。ひとつの社会の、ひとつの歴史という名、責務のもとに、常に変化しうるものは観察対象として、「書く」ことに押し流されていった。

物語る、劇的な知は、画一的な読みを期待して「書く」ことへのみ込まれてしまった。フィクションを読むという経験によって、塗りつぶされていく思考は、ちょうど価値ある資源や機械による光や労働の恒常化と同時にすすんでいく。われわれは身体感覚の代理、延長を得るかわりに、こよみや風土といった時空間の境界からはなれてしまった。量や質、貨幣価値で表象される時空間のみをたよりとして生きることへと、やがて若さや知性といった美徳を「恒常的に」維持する技術へと束縛される。欲望によって衝き動かされる、ある区切られた時空間……そこに人間というフィクション、織り成される関係性が存在する。

変化(わざわい)は技術(わざ)を翻弄する。見通しという宇宙論の外へと人間を駆り出す。「たとえ」神賭けてありえぬものごとが、「たとえば」神のごときありがたいものごとが、到来することによって、知っていたはずの知はすぐに欺かれてしまう。近代科学の書かれた知は、それのもつ圧倒的な情報量によって、名によって、責務によって、ひとつの恒常性を保っているように、欲望しているようにみえる。しかし脈絡がなくあらわれ来たることには、前近代的な知と同様に脆さを抱えている。うわさ、流行、恐怖……知識の見通せぬ情報にたいしては科学の類推で物語ることしかできないし、みずからの立場をまもるような、理性や美、精神の一貫性で物語ることの弊害もまた存在する。それらでは計り知れず名指せないカオス、変化に身を投じる恐れを、「つねに」かける知。人びとはそれに依存し、考えることを忘却している……。