マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

言語文化と想起

 書物文化、およびインターネット社会は、「書く」、および「読む」という行為を食事や排泄と同じくらい欠かせない反射的で、感覚的な行為として完成させた。しかも、それらは思考する「精神」の営為として理解される。民族や国家、あるいは民衆といったカテゴリーに属して、自発的に行動する人間の表現の発露。おそらくこの事実について疑問をさしはさむ人間はいない――いないからこそ問題なのだ。

 

 「書く」「読む」という行為を社会的に何かを「伝える」営為とするとき、なぜその事象を日常生活のなかで「想起する」、または「表象する」のかという問いに置き換えると、「書く」「読む」行為はたちまちその反射性、感覚性を除かねばならない。

 現代のコミュニケーションは「持続的に残す」という発想に欠けている。

 もしかしたらそれは、多くの血をながすこととなった、民族精神や国家精神、民衆のルサンチマンといった歴史の原動力への反省、あるいは言語文化そのものを衝動的な金融システムや資本主義的マーケティングの婢とするという時代精神なのかもしれない。落ち目の出版業界や映画業界が目先の出版部数や興行動員数に気をとられ、何らの革新的議論をも生まないお人形遊びに興じていることからも明らかであろう。

 知の基盤たるべき大学や学術機関に前世紀の大衆化のメリットが反映されず、「反差別」を錦の御旗に主役と悪役をとっかえひっかえした議論に終始するさまも滑稽である。情報共有の高速化と拡大に、ただ情報を大量に「消費する」といったリアクションしか取れていない現代の人間の悲劇である。

 自然災害を何度も経験しながらも、その場の物語、道徳的美談にしか耳目が惹きつけられない、国家的プロジェクトが責任者の利益誘導や不道徳性で沈滞し、もはや歓迎されない。「日本スゴイ」と散々持ち上げるのも、「日本の衰退」と憂うのも部数や視聴率次第。情報がいかに大容量で、高速に通信できるようになっても、安易な二分法と二極化した評論が国民・民族・市民・民衆・庶民といった様々なバイアスのかかった「精神」から吐き出されるだけで、それらをいかに高速で出したり引っ込めたりするかという歪んだリテラシーが求められる。

 

 すくなくとも、古代や中世の『人文学』は、近現代のこうした堕落した読み書きのコンテクストから離脱しなければならない。

 文字資料だけではなく、近現代的価値観では「読み書きできない」とされる人間の神話伝承・図像学儀礼祭祀は、持続的な「読み書き」によって運用されてきた、といえる。それらは、近代的な知識人が考えている識字的主体、国民・民族・市民・民衆・庶民云々とは別箇の、協働的な日常の生とのかかわりとしてのリテラシーなのである。文字を「読み書き」するのではなく、自分たちの生を「延べる(持続する)」ために「よみかき」する。

 そのために遺されてきたテクストは、その古さのために全面的に信用される、というような魔術的・呪術的な効能をも認められる。しかしながら、それは現代的な「貨幣」や「金融」が数学的な考え方で理論化し、予測し、何とか維持している中長期的「信用」の、いわばプロトタイプ的な姿なのである。

 言語の基礎に詩歌が存在するのは、その形式が身体的な動作を規範化して、協働的な社会的行為を行わせるメディアであり、なおかつその内容が何ものかの生や社会的行為を受け皿(メタファー)にしてものを教え、考えるという目的に適するからである。

 

 そしてそれは、道具の使用――外界の自然(風土や四季、そして他者)にいかに順応するかという生の持続に、きわめて痛切に連関しているものであった。「生を延べる」ために、道具の持続的使用には、「権威」的な信用が不可欠となったのである。道具自体にも、外界を「よみ」、王や貴顕とのつながりを示すシンボルを「かく」ことが必要であった。繰り返す一年のうちに、農作業や鍛冶、牧畜に極めて重要な春夏秋冬の訪れとともに記念し、想起することもまた求められた。物語を「よみかき」するということは、かくして知を持続的に連関させ、記銘する「技術」であったのである(むろん、今も学者や政治家に求められている技能であることは言うまでもないが)。

 

 現代大衆文化の「記憶」は、古代や中世の神話や説話から多くのイメージを借用している。しかし、はたして人びとは持続的に「記銘する」技術をそこから学び取ることができるのか、それは時の流れが(残酷にも)証明することになるであろう。