マツノヤ人文学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

一即多(いっしょくた)ーー二元論への試み

前の記事で、どうやら言語というのはイメージ(異名辞)、「強意」のかたまりであることに思いいたった。

matsunoya.hatenablog.jp

 

驚異であり、脅威であるところの、「乱れ」。集合体内にまた別の集合体を見いだす「入れ子構造」。われわれは矛盾や反語をたやすく口にするが、そこに作用しているある種の混淆に目を向けているだろうか。矛盾や反語は、非論理かつ病的なものとして排除してはならない問題を抱えている。

部分と全体の調和的な秩序、符合は、つねに社会内で意識されているおきてである。比や集合といった数学は、一を基礎にした多の考察という点では、こうしたおきてを求めようとする社会的な関心と連動して生み出されてきたものといえる。それは美術や文学といった他学域からも抽出されうるエピステーメーのようなものであり、慣習……例(たとえ)によってあらゆるものごとに侵食する。強意をもってかたることは、意図を縺れ、解(ほつ)れ、絡ませながら、社会や歴史というかたちで共同体にあたえられた緊張を「あやつる」ことといえる。

集合体が一であり、また多であることは否定しようがない。しかしながら、一と多を峻別し、囲い、もっといえば無限定な無であると宣言することは宥されている。そういった立場からは一即多は不可解な考えである。もし緊張が、持続が、欲望があやつられず、そこに「あるがまま」あるだけならば、「まれ」や「乱れ」は決して認められないし、まとめられることもない。一なり多なりを、ことばの「あや(文彩)」をもてあやつることは、それが一即多であることを、まわりに向けて暴き立てる。しかも、そこには秩序も符合も一切がおぼろげで、ただ変化が「まれ」や「乱れ」として辛うじて見て取られる。

 

ことさらに綻びが「ある」ことで、社会としても歴史としてもある向きへと向かってゆくことができることばとなるのだ。