マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

「染中」時代の自覚

 新型コロナウイルス肺炎は、新時代の「戦争」を我われにもたらしつつあるように思う。

 

 ここまで至る現代日本の前史として、第二次世界大戦「戦後」の時代は、バブル崩壊から阪神淡路大震災東日本大震災を経由した「失われた20年」で一区切りを迎えた、と考えてもよい。日本人の思考のパラダイムも、個人の生活の量的、質的向上のために政治に参画するという志向から、景気や災害から生活を防衛するために政府の対応を要請するという志向へと、徐徐に移り変わっていった。そこに、少子高齢化の進行、グローバル経済の進展と観光立国構想、そして対外孤立主義等々と、さまざまな要因が相俟って、目に見えない戦争の構図を形成していく。

 これは国家主導で化学兵器核兵器で敵国を蹂躙する、近代的かつ国際法的な戦争ではない。国家はむしろ舞台装置に退き、武力なくして人を殺しかねない戦争である。すなわち、国内外の対立構造が「情報」を引き金に煽動され、必要とする物資や金融が行き渡らなくなる事態である。

 国内の経済的、政治的対立が内戦を引き起こすのはままある話である。国際間の戦争もまた然りである。しかしながら、現在進行中の現象は、グローバルな「情報」の循環によってどこでこうした閉塞が起こるかわからない、さながら無差別爆撃のような状況を呈している。

 現にフェイクニュースやファクトチェックという、「染前」あれほど叫ばれていた問題提起が、この騒動によって雲散霧消してしまったのである。出所不明な情報がネットニュース、ソーシャルメディア、マスメディアとロンダリングされ、国の政策決定にまで影響を及ぼす。棚上げにされた情報のクオリティの問題は、ウイルス感染対策のみならず、「染まる」こと全般、ことに情報利用という「染中」時代の生存を脅かすこととなるだろう。

 

 ここで気がかりなのは、日本人の戦争観が70数年前のままストップし、いびつに増幅され浸透していることである。現に社会が「コロナウイルス憎し」と、鬼畜米英のように被害者ぶり憎悪を募らせたり、自粛、閉鎖、疎開という統制へと傾きつつある。「戦い」という声も聞かれるが、我われが立ち向かうのはウイルスではなく、サーバーから世間へと、野放図に解き放たれた情報なのである。

 戦中からまるで更新されず残った精神論、高度成長期の東京一極集中に端を発する日本全体の政情にかんするマスコミの無関心、現代的な老人対若者、東京対地方等々の対立煽りが脅威となる。政府の出す指針を待ち信じていても、大戦の二の舞を踏むだけである。

 

 前時代考えられてきたような「悪」との戦争ではないのである。「良かれ」と情報を拡散する行為こそが事態を悪化することを見据え、しずかに染後の社会を思い描きながら行動することが求められるだろう。