マツノヤ人文学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

物語、隠喩、精神

 「賢さ」にはまったく異なる二つの概念が内在する。事物に関する知識の豊富さを単に量る「賢さ」と、その知識がどれだけの事物と関連するかという総体の「賢さ」である。いくら科学の知識が発展したとしても、多方面の学問を別々に知らなければならないならば、それは古代や中世などより「賢くなった」とはいいがたい。

 人文学が「物語」を介して伝達、伝承するものは事物との多義的なつながり、「隠喩」による賢さである。神話や呪術が天象、農耕、醸造、狩猟、鍛冶などを統合し、一時代、一地域の「語り」たりえたのは、この働きによる。ソーシャル・ネットワーク以前の社会的な結束は、物語の共有にあったといっても過言ではない。

 ところが、近世的な学者、近代的な大学の学びは伝達や伝承のための物語を「伝統」へと読み替えた。社会における国家、帝国の生成と、それを裏付ける古典の「精神」の存在は無関係ではない。そしてそれに反抗する個我という「精神」も、脳科学的、遺伝学的、病跡学などからさまざまな解釈が試みられ、もって生まれた天才や障害といった型にはめられて物語られている。

 そこに現代社会の無防備さがある。多義性としての神話的「賢さ(むしろ「聖なる」畏さ)」が、いかに明確で一義的なものを多く占有するか、という博物学的「賢さ」に置き換えられていった結果、細かく分けられているけれども、つながりが不明瞭な知を高等教育で教え込むようになってしまった。多くが「精神」という骨董品のような概念を更新しないまま、前時代のシステムを引き継ぐ形で学ばれている。

 「実学」として役立つ知も、即物的に、たとえば「少子高齢化や介護に役立つAIやロボットの研究」としてはたしかに有用だが、「それらが現在の労働者をクビに追い込んだあとどうするか」という社会的効用の考察までには及びえない。近代の帝国を拡大させてきた「産業革命」的原動力としてはまことに適切な「場当たり」ではあるが、資源の有効活用、環境保全、格差の是正といった道義的締め付けの厳しくなった現代においては時代遅れである。

 これに対し、「非実用的」な古典教養は反面教師として何を学ばせてくれるだろうか。そこには未分化で、社会全体の考察に耐えうる知が投げかけられているはずである――ただしそれを国家や個人の「精神」という語で処理しなければ。何も古典時代の環境問題、たとえば古代ローマの鉛中毒や、フェニキア人のレバノン杉伐採などを取り上げ、現代化して論じるといった手間はいらない。「宗教」や「哲学」といったものを今あるような心理的かつナイーヴなとらえ方だけではなく、実際的な古代中世の金属工業との関連や、労働や恋愛といった社会的行為が詩や歌としていかに読み替えられていったかを主題に学究していくだけで、実り豊かな成果をもたらすだろう。私は地中海からインド洋までつながる海の路と、シルクロードなどの陸の交易路の「物語」の諸相を追究することが、次代の(ポスト肺炎期の)グローバル社会を見据える学知となることを信じている。

(今回の学融商品案)

 役小角空海などと、ウェルギリウスやマーリンなどの魔術的宗教者の比較的研究。かれらは各地にみずからの魔術的能力を付与した遺跡をのこした、と信じられてきた。大文字の「魔術師」「宗教者」の伝説の根底には、「放浪学生」「聖」といった小文字の「魔術師」「芸能者」といった聖俗入り混じった社会構造と運動が息づいている。その関係性(たとえば、「風呂」をめぐるEuergeticな伝承)を考察することで、たとえば京都の祇園界隈といった街の成立を、考えることができるだろう。それを踏まえて、21世紀にいかに活かすかをコンサルティングする。