マツノヤ人文学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

生成と変容

 「語源」「神話の類型」「心性」の研究は息が詰まるし、行き詰まる。なぜかというと、これらの起源をたどるという行為が、病的な収集癖、衒学、知識人の選民意識(アカデミズム)、オカルトといった近代活字文化の爛れた腐臭にまみれているからであり、その毒に中ってしまうからだ。

 人間社会の営為から切り離され、いずれ「道楽」として忘却されてしまうような塊。それらは自分のたどって来たローカルな歴史には沈黙し、「普遍的な理論」がごとくふるまう。それらを活き活きとした学問へと再生するには何をすべきか?……学際的、もっといえば「学融的」に、貪欲に他領域に雑じり、交わっていかなければならない。

 学問はその時代、地域の雰囲気を活写するものであるが、その後景をきちんと説明しないまま宗教にまで祭り上げられてしまう。そのような流行り廃りで研究するべき時代にはもうない。政治家の進める自国中心主義、孤立主義に(いっちょ前に)声を上げる学者は多いが、彼らはみずからの学問的全体主義、学問的孤立には無頓着である。

 「日々三省す」「汝自身を知れ」といった古人の教えは全くと言っていいほど理解されていない。「鏡」の隠喩は洋の東西を問わず用いられているが、自分の研究が社会の空気感を反映していることに恐懼し、恥じ入る者はいない。かれらは目の前の敵を、その幻影をあざけり、思い上がる――そうでもしないと生きてゆけないほど日々の責務に追われ、立ち停まることはできないほど、いまの学問は(社会的に認められた、れっきとした)閑暇ではなくなってしまっている。そのようなさび付いた鏡から何が学べようか。

 「幻影」と書いたが、学問で取り扱う術語、概念は常に揺り動き、今も刻々と変わりつつある動的なものである。それらが「固定観念」のように思われ、あたかも始終そのままそのように存在していたかのように歴史が編まれるのは、「印刷術」「写真」「書物」中心でモノゴトを考えてしまう我われの悪弊である。インターネット、SNSの普及はそうした幸福な無知に拍車をかけている。書かれ、描かれることの功罪にこだわらずして、何もかも記録すればいいものではない。この警告は、「Fama(噂)」または名声との古代からの終わりなき戦いを想起させる。

 生成し、変容する「物語」を、せわしない校訂作業と完璧なテクスト探しへと変えてしまったルネサンスの古代愛好が呪わしい。彼らは「発明」「技術」「天才」にまるっきり依存し、神話の活性を成り上がり者の趣味の悪い骨董趣味へと貶めてしまった。そしてそのムーブメントを全球的に広めてしまったのである。「学問」の名のもとの精神人文学と科学技術の分裂は悲劇以外の何物でもない。みずからを何者か知らない「かたり」の氾濫は、しかしながら興味深いことに、みずからが決して知りえない知のネットワークの拡がりを示唆している……

 

本を読む幸福な豚たち。

 

行く河のタイムラインは絶えずして、しかも元のタイムラインにあらず。