マツノヤ人文学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

辰砂の社会文化史・試論――平城京と平安京を例として

 この記事は前の万葉歌謡史の補完のようなものである。

 

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 どの国のどの文化もほとんどは「伝統」「慣習」「古典教養」として農耕文化を基礎としている。ヘシオードスやウェルギリウスの農耕詩、中国の詩経、そして万葉集記紀の世界は、純朴な「農民」の精神を反映しているとみなされ、これらを基礎とした経済学や儒学国学に「回帰衝動」をうながすこととなった。

 

 資本家が商工業を自由に行い、貧富の格差が拡大することへの危惧、国家による経済の統制、軍事的伸長の達成といったアイデアの根源には、知識人が修辞として刷り込まれる教養が少なからず影響したと考えられる。

 

 しかしその「農耕文化」の想定されている範囲が問題だ。古典テキストや口承伝承が農耕を支える庶民、民衆の素朴な精神、心性と解釈されたのは深刻な誤謬と言わざるを得ない。もっと拗れた例としては、それはさらに王権が農民に強制した嘘、プロパガンダとしてこれらの言説を過剰に排除しようとする。近現代の史観や価値観、科学技術を中心に据えるあまり、テクストの伝える差別的な言説を合理化し、塗りつぶそうとする。

 

 コロナ禍でウイルスからの「隔離」が問題となったとき、「物忌み」が伝染病に対する正当な習慣だと評価する向きと、女性や外国人に向けた不当な差別として許されるべきでないと反論する向きがあった。またやすらい花など疫病退散を祈る祭祀が「初めて」中止になったことにたいして、神仏にすがるしかなく祭りを強行せざるを得なかった時代から、ウイルスが原因とわかるようになったことは進歩である、という論もあった。これらは過去との間に壁を設け、高踏的に眺める近現代人の賢しら、逆説的無知と言わざるを得ない。アメリカにおける人種や民族の「共存」においても、歴史を踏まえず感情に衝き動かされる論調が見られるが、知識人の設ける狭窄的な「障壁」を取り払わないかぎり、これらは議論のテーブル以前の言葉の石つぶてでしかない。

 

 近代は近代人、とりわけ大学人の考える「農業」の枠組みによって、流動的な商業、工業の従事者を異端視した。西洋中世における「賤民」、日本民俗学における「非常民」「まれびと」は、しばし同時代の浮浪者や犯罪、異国への警戒とも結びつけられる。教育という、国民国家や植民地支配のなかの正統意識の醸成と、古典教養とが密接に結びついていた時代においては、その異質性は憧憬と排除の間で極端に揺れ動くこととなった。シルクロードや南海を行き来した交易と、「日本固有」とされる神話や文化の形成のあいだには、「騎馬民族征服王朝」や「日ユ同祖論」という過激な説もあるが、おおむね日本国内、黄河・長江両流域や朝鮮半島といった東アジア間の影響が注目され、巨視的な東西交渉史は忌避されている。

 

 

 私がいま取り組んでいる「金属」と「東西文化交流史」の問題についても、同様の困難が存在する。奈良の大仏を金メッキした技術は、辰砂(朱砂、硫化水銀)の利用において、グローバルな知識の往来があったと考えられる。奈良において道教の煉丹術やペルシアを介してオリエント由来の錬金術などが共有され、のちにはインドの民間信仰を取り入れた密教空海が学ぶことによって、平安京遷都以降も技術の維持が企図されていたのではないだろうか。

 

 メッキの持つ宝飾や耐腐食、さらに水銀のもつ殺菌作用やミイラ化作用が、延命長寿、安産子育てといった現世利益と結びつけられ、技術が信仰へと変容していく(それは、ヨーロッパで錬金術がほかの金属から金を生み出す化学的なプロセスや、贋金を作り出す経済的な欺瞞と捉えられ、後発の化学や社会経済に影響をおよぼしたことと好対照である)。その代表が「壬生」という地名のもつ多義性にある。かつて辰砂を掘削した坑(丹生)から清水が湧き出し(水生)、そこに定着した氏族が皇子の傅育(御傅)を仰せつかる。水分(みくまり)は身ごもりや御子守りとも結び付けられ、壬と妊の連関によっても「理論武装」されていくのである。

 

 そうした先駆者となった寺社の周縁には農耕共同体や門前町が形成され、商工業や軍事もあらかじめ射程に入った「拡張的な」農耕社会が営まれることとなる。何昼夜も掛かる金属精錬のための「こよみ」や「風土」の選定は、後発的な農耕社会のルール、タブーによって説明が行われていく。吉野裕子の「陰陽五行説」による農村祭祀の説明は、一時的な辰砂や金銀銅鉄などの採鉱が行き詰ったあとの、祭祀の「維持」のための再解釈として妥当であったといえるだろう。

 

 古代末期から中世にかけての歌謡・説話文学の発展と神仏習合の伸長は、この拡張的な農耕社会を視野に入れて研究する必要がある(これは中国やインド、地中海地域においても同じである)。

 

 たとえば弓削道鏡と称徳女帝の卑猥な説話群は、西洋の類似の錬金術のように水銀と硫黄の「神秘的な結婚」を念頭に置かれたものではないかと私は考えている。水銀(たか=高野姫天皇)と硫黄(ゆわう=弓削、また靫の皮なめしには明礬が必要)の辰砂への錬成は、イザナギ=多賀とイザナミ=熊野(ゆや)の花の窟との交合が念頭にあった(イザナミが陰部を焼かれたのは、硫黄の発火現象と関係があるかもしれないし、イザナギが冥界から逃げおおせることができたのも、他地域の水銀の神が俊足で知られることと関連するかもしれない。また、古事記の最古の写本が大洲観音に存在することも一考の余地がある)。これらの多くはまた農耕の豊穣とも結び付けられる。のちに高野聖(火知り)が好色とはやされたのも、近代的なエロティシズムへの興味というよりは、技術を交合により説明する伝承があったことをうかがわせるものである。

 

 こうした金属系の地名からの類推(羽黒や丹生)は、しかしながら、単なる「高地」だったり、農耕祭祀由来の地名との混同の恐れもある。一口(いもあらい)の語源を鋳物師ではなく、斎み祓いとする論などがそうした危惧の現われである。それでも、祟る・祓う・忌むという農耕社会のタブーに関する意識が、タタラからススを払い、イモを作る工人たちの健康被害から類推されたと考えるならば、その境界は融解してしまうように思われる。また、京都の「高野」を例に取って言えば、高野川上流に弾誓上人の即身仏を祀る阿弥陀寺が存在したり、「赤の宮神社」として知られる賀茂波爾神社が鎮座することも踏まえて、辰砂関係の地名であると類推するに足ると思う。

 

 古墳内の朱塗りは、死をタブーとしない金屋子神の伝承と併せてこうした工人たちを葬礼に従事させたことを想像させる。他にもニウツヒメとミヅハノメの混同を通じ、「滝(タキ)」に住まう竜神への雨乞い、卑賤視された「竹細工」への従事も関連があるのではないか。「なよたけのかぐや姫」の竹取物語は、道教の丹薬や金銀細工など「よろづの事に使える」タカ採り物語だった可能性がある(それが雲南の説話との関連が指摘されるにしても)。

 

 貧賤で穢れ多いとされた工人たちは、仏像や朱塗りの鳥居を要する寺社と結びつきが強く、また鉱業が衰退すると暴徒となる危険性があったため、桓武天皇の遷都計画においてはとりわけ疎んじられた(おそらく平城京の戦乱や政変の兵力は寺社お抱えの武装工人だったのではないか)。

 

 しかしながら、平城京が頓挫したのち選ばれ、秦氏(弓月王=硫黄?)や賀茂氏(丹塗りの矢)、比叡山を越えて日吉の神人などが陣取っていた平安京の地は、もともと丹生の地であったため、寺社の進出はいやおうなしに進んでいった。右京の地の多くは古来の太秦、松尾に近く早期に放棄され(壬生の地があったのも影響しているか)町堂や貴族の私的な持仏堂、そして神仏習合の形で当初の寺院排除は反故にされていった(ここら辺の説は桃崎有一郎の影響下にある)。朝廷のコントロールに服しない寺社の私兵的な工人の増加は、たとえばシダラ神や牛頭天王の御霊の流行や、下って僧兵の嗷訴などの形で朝廷貴族を悩ませることとなった。

 

 源氏や平氏といった賜姓皇族の棟梁を頂点とした武士(もののふ)の結集は、境域の動乱を鎮圧するだけでなく、さまざまな商工業に従事した寺社の「傭兵」を朝廷側に取り込む企てだったのかもしれない(筆者はここに、イベリア半島レコンキスタ期に、イスラームキリスト教諸侯の境域で雇われ人質などの紛争を解決した境域の人間のような営みがあったと想像している。また、馬や猿と関係が深いカッパは、非定住的な渡し守、山人、芸能者としての性格も持つ、こうした任務に従事する傭兵がモデルだったと考えている)。さらに、白河や鳥羽、宇治の別荘地における浄土信仰は、来世への夢想だけでなく、たとえば今でいう公共事業による雇用創出のような実際的な利益もあったに違いない。とくに天台宗は「鎌倉新仏教」と称されるさまざまな分派へと分裂し、身分階層ごとの信仰様式の分化という現象を引き起こす。

 

 こうした技術の名残は、朝廷の政治的影響力が弱まったのちも、室町時代にはじまる七福神信仰や、京都の路地にみられる地蔵、大日如来、稲荷、庚申信仰などに現れていると思う。福の神はおそらく元々金を「吹く」ために必要とされた神である(たとえば、毘沙門天密教との関係が深く、シンボルとされた百足は鉱脈と結びつけられる。エビスはイザナギイザナミの初子など)大日如来や稲荷は東寺、庚申信仰比叡山の真猿信仰と縁が深く、とくに各地に点在する「出世稲荷」「出世地蔵」の存在は、「朱砂」との関係性を疑わせる(および、スサノオ、スセリヒメを基とする出雲・オオクニヌシ系の信仰が関係しているのかもしれない)

 

 以上はざっくり今頭の中に浮かんでいる仮説を書き出したものである。中世にむけては、京都の貴族や寺社と、各地の荘園や豪族のネットワークがどう影響しているか、などが関わってくるので、より文化史は複雑になるだろう。近代の民俗学や方言学が考えてきたように、都の周縁には波状に、より古層の文化が保存されている、というような想定は難しくなるだろう。また、地誌や郷土史として孤立し、固有と見なされていた伝承や、類型にはめ込まれてしまった現象を、その時々のネットワークに組み入れる必要がある。これは実に大変な作業である。

 

大いに示唆を与えられるリンク。

somosora.hateblo.jp

辰砂の考察をされていることを先日初めて知った。

homepage1.canvas.ne.jp