マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

情報文化圏交渉比較環境言語人文学概論

表題に挙げた「情報文化圏交渉比較環境言語人文学」は、以前述べた「ポスト・オリエント学」の言い換えである。この1ヵ月の考察で、だいぶ構想が煮詰まってきたので、少しなりとも目的が伝わりやすいように専攻分野名を考えてみた。

 

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ことの発端は、ギリシア神話などのインド・ヨーロッパ語族的な文化と、易や陰陽を主とした中国や日本神話が、交易路や通商史を介して繋がっているのかもしれない、というおぼろげな確信であった。以前から、「トンデモ」と称されるような、たとえば西脇順三郎ギリシア語と漢語の比較や、与謝野達のラテン語大和言葉の比較には関心があったし、オリエントの宗教を射程に、井本英一の宗教学的蓄積や、藤堂明保の単語家族論とかと衝き合わせて考えれば、ユーラシア的な文化交渉の有り様が見えてくるのではないかとかねがね思い描いていた。

 その後も植田重雄のゲルマン神話から聖人崇拝への推移の研究や、吉野裕子五行説米山俊直の小盆地宇宙の論などに触れ、白川静折口信夫などの古典的東洋研究とあわせて何かまとまった成果ができるのではないかと考え、このブログで発表しようと準備していた。しかしながら、古今東西個々の「こよみ」と「風土」という具体的な時間知や空間知の集積がなければ、単なる机上の空論にすぎない。

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 おもうに、人文学の原理として考えられてきた理性や美、精神は、民族や国家、労働といった社会的な関係を表情づけるものであるが、それは「こよみ」や「風土」の質を捨象した「不特定多数の」時間、空間という価値をもとに作り出されたフィクションなのである。それは書かれた結果であるが書く原理ではない。未知、既知問わずわれわれの目の前に見いだされる知識、情報の型……時間知や空間知が、どのようにネットワークとなってきたかを考察すべきであり、そこで考えるのを病めるのはいけない。

 

情報文化圏交渉比較環境言語人文学は言語の作用、「たとえ」などによって、「こよみ」や「風土」としてとらえられてきた変化(へんげ)がどのように写し取られてきたかを研究する学問である。変化は、たとえば「まれ」というカテゴリーによって、生活様式に採り入れられる。それに善悪等々の精神性をたとえることによって、神聖さを、あるいは異形な力として描かれる。近代はそれらを宗教学や怪物学の体系に組み入れ、ヌーメンやスティグマなどと分別した。

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 実際に「それ」が変化として展開したのは、日々の時間知や空間知の虚を衝くようなまれの到来と、それを知るための物語る行為である。しかしながら文化という権威によって分かち合われるところのそれは、もともとの「ことば」から書き記される「言語」へと編成することによって、模倣のための物語から分け前のための物語へと、つまりあそびから法へと変性してしまう。もはやまれという例外は例そのものになって、文化として他のまれへと感染してゆくのだ。「アルカイック」と称される、古典文学や芸能はそうしたメカニズムを現代まで保っている。

ことなる知性をむすぶ地政学として、情報文化圏交渉比較環境言語人文学は、言語、哲学、信仰、社会、歴史、芸術が、知りえなかった「互い」を知る場となることを私は期待している。

さいごに、「こよみ」と「風土」と物語の関係について、役に立つと思われるWebサイトを挙げよう。参考文献は、各研究の粗描とともに後日掲載する。

 

uchuronjo.com

web.kyoto-inet.or.jp