マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

学問への動機

 歴史にかぎらず、学問は現代の鏡である。なにか「現代に通じるもの」を嗅ぎ取ったからこそ、深く掘り下げて研究が行われる。書籍や論文で浸透する学説、というものは、時代精神、時代の要請にかなったものだからこそ、その影響力を認めざるを得ない。そこにはある程度の流行り廃りを認めなければならない。

 

 しかしながら、多くの人間は学問にそれ以上のものを求める。具体的には、「あまりにも現代的な」結論ありきで、学問を矮小化、教訓化、精神化してしまう。「物語」として、現代的な視点からあれこれ口をはさみたがる。たとえば歴史であれば、「古人の愚かさ」をあざ笑い、「われわれの責務」を見出し、「唯一固有のアイデンティティ」として珍重するとき、歴史学にはひとつの制限が課せられることになる。どうしてもステレオタイプに見てしまわずにはいられないのだ。そうして歴史は、過度に現代的につくられた子供たちのための「昔ばなし、伝記もの」や、街おこしやビジネスマンに役立つだろう「歴史小説」として消費され、いつしか忘れ去られていく。

 

 こうしたある種のひいき目で見てしまえば、他地域やほかの時代の歴史と厳密に比較することはできない。いつまでたっても「隣の芝生は青い」か、「うちはうち、他所は他所」といった議論に終始することとなる。基本的に言語学においても同じである。ステレオタイプに切り取った領域外を見ずに、「こういうお国柄」や「そういう民族性」という視野しか保てない。

 

 「謎」とか「美」とか「精神」とか付いた歴史書は基本的には「エッセイ」である。それを書いた人には理解しがたかった価値観をそうした文言で片づけているだけであって、その人のものの見方を知る手立てにはなるが、研究対象への理解の深化にはあまり役立たないだろう。

 

 オカルトやこじつけ、陰謀論めいた歴史も、無意識に張り巡らされた(その当時の)現代人の価値観を知るには格好のテーマである。これを過剰に愚弄し、排除するのを見るのは、新たな愚かさで古い愚かさを塗りつぶすようで忍びない。どんな優れた歴史学者であっても、巷間に流布する陰謀論めいた「歴史」を塗り替えるまでの影響力を持てないのは、「一般的な現代人の限界」と「アカデミズムの限界」を埋めることの難しさを物語っている。

 

 それは、教訓好きで、規律やアイデンティティとして歴史を消費したがっている一般的な現代人を教育、啓蒙すれば済むということでは決してない。そういう意識が両者の乖離を促進させたといっても過言でないし、アカデミズムの知的関心が影響力として依然力不足であることを覆い隠してきた、といってもよい。それは18世紀後半くらい変わらない、「知識人(エリート)」と「民衆」というフィクションにすぎない精神性なるものへの固執に始まっている。知の境界は、ステレオタイプを固着させた活字出版文化によって、ほとんどそこから動いていない。

 

 越境的、俯瞰的な視点でこれらの学問的境界を検討することは、生を豊かにするために人文学をより効果的に運用することにつながるかもしれないし、今までと変わらない、「小説」としてジャーナリスティックに戯画化した人文学とか「エッセイ」として自分語りに終始した人文学に閉じこもることが続くかもしれない。今まで通り惰性で維持され、ゆるやかに朽ちていくのであればもうそれでよいではないか、という諦めも感じ始めている。

 

 退屈な繰り返し(クリーシェ)で溢れ返る情報を総合的に捉える結節点として、人文学が果たすべき役割はまだ残されている、と信じたいのではあるが……