マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

情報網と異文化交流、そして「実在性」

「実在性」を云々する書物が多く見られるようになった気がする。ヴァーチャル・リアリティなどで、現実と空想の境があやふやになっているからか、時間や世界の実在性を疑ってみたりするのが流行のようだ。このような論はたとえば「霊魂」のように何十年、何百年もまえから蒸し返されており、正直議論は尽くされている気もするけれども、あたらしい技術が生まれるたびにこうした論争が雨後の筍のように生え出でて、留まることを知らない。

実在性のあるなしが何をそのように議論へと駆り立てるのか。こんなことを問うてみても実在への議論には役に立たぬのかもしれない。あるいはこういいかえてもよい。何をそのように現実と空想の境がまぎれるのを恐れているのか、と。「時間が流れる」、「世界が広がる」、そして「私がある」ということばが、数学のように証明できずに何の不利益があろう。もし実在して、それを制御する技術が確立することのほうがよほど恐ろしい。このうち私があることについては、識別管理技術なんぞの進歩、また共同体による過剰な侵食で不利益をこうむっている例を、われわれは歴史から見いだすことができるわけであるが。

実在性をわざわざ気にせずとも、われわれは嘘か真かの世界を日び生きている。最終的に依拠する権威は、宗教や経験、科学その他もろもろの学問の体系である。それらで真とされたものを、われわれは各々信じている。事物はその体系のネットワークで絡めとられ、凝り固まったように我々にむけて現れる。ところがことなった体系どうしのやり取りのなかでは、問題となるのはいわゆる「実在する」ものやことでしかない。共同体に緻密な情報網が張り巡らされているにもかかわらず、ずかずかと入り込んでは事象を収集し、「野蛮」「無知」「素朴」「根源」なんどという手垢のつきはてた情報におきかえる学問のいかに多いことか(それが『ゲルマーニア』あたりからつづく伝統的な修辞技法であったとしても、知らずに使われることが多い)。

もちろん、「書く」という技法じたいが従来口承文化とみなされるような「情報網」を汲み取ることができず、ただものごとの配置や一時的意味を記録することしかできない薄っぺらい技術であることも理解しなければならない。「もっともらしい」という感覚は「書く」ことに依存しては味わえない(教育によって、そう錯覚するよう歪曲されているが)。「もっともらしい」ように書くことを活用するとすれば、情報網を構築しながら、異物を迎え入れる……呪術のような思考に向かわざるを得ないだろう。