マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

反寓話攷:近代精神の解体(草稿)

 現代社会において、精神と物質、経済と宗教の溝は根深いように見える。しかし実はこれらは表裏一体なものであって、本研究所でもそれに絡めて「有用性」と「消費」に一度論じたことがある。

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 精神も物質も一種の「かたる作用」の所産である。そしてその「かたり」は、社会のあり方や歴史の流れのなかで、さまざまな解釈を加えられながら変容していく。それを名称の同一性という観点から眺めたとき、「正しい意味」「派生、転義」という対立が生まれる。

 その対立を引きずって、「寓話」というスタイルが生まれることとなる。たとえば、古代中世を研究する意義そのものが、現代の寓話としてなのである。研究される対象としての古代中世は、寓話としての働きなくしては、もはや見向きもされない。そして、史観たる「現代」の前提として存在する、精神や物質についての考察に根本的な更新がなされぬまま、従来の観方において「寓話」を産み続けるのだ。

 外形としての歴史と社会だけでなく、内容物としてももちろん「寓話」は存在する。たとえば迷信や呪術は、近代科学や経済への信頼が生んだ寓話である。錬金術といえば、近代科学に淘汰された迷信であり、あるいは眉唾な方法で金持ちをだまし金を巻き上げる経済的メカニズムのことを言う。それは「インチキ」「無知誤解」「野蛮」として「真っ当な」科学や経済から見た偏見としかいいようがない。この種の合理化やつじつま合わせを排し、その時代に通用していた社会のあり方として、現代の科学や経済に対し肩を並べうるコード体系として研究される機会は非常に少ない。

 「寓話」のように、意味するものと意味されるところが乖離したスタイルではない叙述の方法を用意しなければならない。それはすなわち、物語が信じられ、社会に通用する仕組みに思いを致すことである。さまざまなコミュニティが、ひとつの物語を信じざるを得なくなった事情(こころ)を、「精神」とか「理性」とか「美」と呼ぶことはたやすい。しかしそこにすべてを帰する=期するような歴史の叙述の仕方は避けなければならないのである。