マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

男子の本買い 

 どう学究につながるかを踏まえたうえで、徒然なるままに買った古書を振り返っていこうと思う。

 

哲学篇

千葉命吉『現象学大意と其の解明』(南光社、昭和3年

 おそらくフッサール現象学に触れた最初期の日本人の著作。著者は大正教育八大主張なる講演会を行った教育家の一人であり、官憲の弾圧や相次ぐ渡米渡独を経験した稀有な人で、カルト的人気を集めている。

 管見の限りネット上には「独創主義」とよばれる彼の教育のみがクローズ・アップされており、この著作にまつわる解説ページは皆無であるといえる。特異なのは、平田神道の名彙で現象学を解説しようと試みられている点であり、巻末には訳語対照表が付いている。独自解釈も含まれている恐れがあるが、20年代現在進行形の現象学に触れた彼の訳語から、そのあとのフッサールの思索をふりかえるような記事を作ってみたい。

 

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1271725

 

https://www.tamagawa.jp/introduction/enkaku/history/detail_5990.html

http://shinyaoffice.seesaa.net/article/430930928.html

https://ameblo.jp/snow-snow-007/entry-11987796785.html

 

伝奇篇

服部邦夫『鬼の風土記』(青弓社
五来重『鬼むかし』(角川選書
松前健『出雲神話』(講談社現代新書

 「伝説リバイバル考」のための情報収集。オオクニヌシにまつわる伝承が後世の「オニ」観へとつながっているのではないか、という仮説の元、いろいろな事例を集めている。古代から中世にかけて神話や説話のメディアとしての役割を果たしてきた「巫覡」の漂泊――それは権威にとって、敵にも味方にもなりうる「境域/限界(Marginal)」の存在だったと予想される。繰り返される音節、「コマ・クマ・クメ・クモ」に着目して、いかなる劇が古代中世に必要とされていたのかを考えていきたいと思う。

 

中村雄二郎魔女ランダ考――演劇的知とはなにか』(岩波現代文庫

 かねてより山口昌男の『道化的世界』(ちくま文庫)、戸井田道三『狂言――落魄した神々の変貌』(平凡社選書)などを読み、「唯劇論」というようなものを構想していたところ、遅ればせながら入手した。面白い。

 ただ、この3冊を通じて、『グレート・マザー(太母)』『トリックスター』などの「かた」から各地の説話を類型的に理解するという手法が引っかかる。これらの物語を生み出すものとは、原始的な心理や心性でかたづくものなのだろうか。風土やこよみといった時間や空間を超越した「人間」という「作為」を想定することによって、なにがしかの真理や信仰を伝えるメディアとしての物語を腐敗させ、人間中心主義を現出してしまったのが近現代の活字書物文化である、と考える立場にとっては、少々不満が残る。

 

風土篇

北見俊夫『川の文化』(講談社学術文庫)、『旅と交通の民俗』(岩崎美術社)
米山俊直『小盆地宇宙と日本文化』

 風土論というのは、一歩間違うと「環境決定論」のようなヤバい思考に陥るリスキーな分野である。環境即心性のような、和辻の『風土』ではとうてい満足はできない。しかしながら、橋や鉄道、空路が整備されてしまい、どこでも同じようなショッピングモールが広がるようになってしまった現代の「風土」に、かつて何が根付き、どのような文化、権威、信仰が生じていたのかを考察することは、近代においてカリカチュア化され、規格化された「人間」歪像から一歩踏み出すうえで欠かせない。

 山から里、そして川から海へ、雄大な、しかし困難な旅路が広がっていたことは、書物未生の「劇」を考察する一助となりうるだろう。また、ヨーロッパや中国などの風土や巡礼路と比較し、そこで語られてきた「変化(へんげ)」、「神話」を人類学や民俗学から取り戻すこともできる。ひとまず、上にあげた書籍は石田英一郎『河童駒引考』(岩波文庫)『桃太郎の母』(講談社学術文庫)や守屋毅『京の芸能――王朝から維新まで』(中公新書)などの風土的な背景を想像するのに好適な副読本といえる。

 

言語篇

山中襄太『語源十二支物語』(大修館書店)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E8%A5%84%E5%A4%AA

 

 語源学というのは難しい。語源即トンデモのような風潮があるし、実際日本語に関しては「縄文語」や「弥生語」を云々して邪馬台国の位置を推理するといったような山師ならぬ「邪馬師」的な扱われ方しかされてないように思う。かといって印欧語や漢字の由来が非の打ちどころがないかというと、これまた19世紀や20世紀の社会の限界を踏まえずに定説と化してしまっている感がある。

 山中襄太という人は興味深い。語源解釈に無差別にぶち込まれる古今東西の言語についての該博かつ玉石混淆な知識の背景には、ウラル=アルタイ語族藤堂明保の単語家族、戦前のスメラ学や東大古族言語、日猶同祖論といった「牽強付会(こじつけ)」、ヨーロッパ植民地帝国時代の「印欧語」研究の域まで完成しきれなかった戦前日本の言語研究への誘惑に満ちている。それは同時に「大日本帝国」の欲望の幻影なのだ。かれの引く「語源」や書籍からそうした思惟を引き出すだけでも、このような一箇のレッキとした研究が生み出せるだろう。