マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

文化のネットワークとしてのことば

 これの続き。

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  わたしは「辞典」形式の語源研究にも、「作文」主体の文法教育にも納得していない。以前示した立場として、古典教養は劇や儀礼と密接に関係しており、「集団語」としての代名詞「われ」「なんじ」「それ」が、そうした文脈から解き放たれ個人の書き物に用いられるようになったのはつい最近になっての(とはいえ、有史以来なのではあるが)運動なのだ。

 だから、いま現在われわれが辞典を引き文法書を参照しながら作文をこなし、やがてこうしてソーシャル・ネットワークにて文章のやり取りを行うようになったのはむしろイレギュラーなのであって、そうした通念を古代や中世の言語観に当てはめるのは、あるていど留保しなければならないとわたしは考えている。とくに排撃しなければならないのは「単語」観ではないだろうか。

 辞書では単語ごとに項目を立て、事物の意味を解説する。文法なども、単語はその属するカテゴリーごとに、交換して文章を作ることが可能とされている。言語教育というシステム自体が、この単語の入れ替えのもと信頼がおかれ機能しているといってもよい。さらに(音声と単語の)二重分節や意識内のレキシコンといった言語理論への援用、国語、語族などの境界線の画定など、社会生活に影響を及ぼしている。

 文字主体のコミュニケーションを図るにはこうした単語による言語の管理は非常に適切であり、なによりも学問的な理解はこれなしでは成り立たない。しかしながら、古代や中世のとくに口承から移植された説話や、いわゆる「隠喩」や「語源」の考察を行うときにははなはだ心もとなく映る。ことばというのはさまざまな地域や時代に合った社会集団に応じた隠喩や語源をもっていてしかるべきだし、説話の記録者に創作やレキシコン、パーソナル・スペース観を当てはめるのは、時代錯誤と言わざるを得ない。古典解釈のための辞典や文法書のほかに、言語研究のための集団的儀礼や物語の知識を収録した手引きが必要であるように思う。

 語源研究ではない、という前置きをしたうえでひとつのプランを述べておきたい。文法はそれぞれの国語ごとに扱っている用語も内容もバラバラで、そもそも統一的に言語行為を把握するには役に立たない。単語の語源的研究も、意味は一単語に一つという暗黙的了解のうえに成り立っており、隠喩などの拡がりを感じるのは難しい。

 前者に関して、名詞とそれにはたらく連体節、動詞とそれにはたらく連用節、そして文節や構文にかんする考察、のように幅広い言語の知見を援用して言語行為を考察する試みを企図している(比較文法や比較言語学ではない。国語という近代国家語のもたらす錯覚に縛られたくはないのである)

 いっぽう後者には、「ニュアンセーム(Nuancème)」という概念を導入する(NuanceとSemeionのカバン語)。K(G)、S/T(Z、D)、N、P/M(B)、L/Rのいずれか2つの組み合わせ、そして母音あわせて26章で章立てし、音義説や祖語、音韻変化およびさまざまな書物からの知識を借り、それぞれの言語の伝統のなかでどのようなニュアンスを持って発されてきたのかを総覧していくプロジェクトである。たとえば、M-Rの組み合わせでいうならば、ブルブル、ボロボロなどの擬態語、里や狸といったMreghで再構される漢字音や朦朧といった連綿語、モリやムロで表される地名に朝鮮語アイヌ語でどういう意味を付されてきたか、そして金属史観による地名考察などをまとめる予定である。

 これらのカビの生えたようなわたしの手法には当然問題もあるだろうし、一見せずとも荒唐無稽なことは目に見えているだろう。しかしながら、この試みは、ロゴスとして、また社会的な営為としての言語行為に新たな視点をもたらしつつ、書物や声の文化のネットワークを再発見することにつながると信じている。