マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

存在とかたり:古文化表象の分析

現代人ほど言語や存在に無関心でのうのうと生きている者はいない。

国語教育はたしかに国民全体の読み書きの浸透には益するもので、文明とか生活に恩恵をもたらすものである。しかしながら、言語や歴史学、哲学の取り扱いについては、きわめて凡庸で弛緩した知覚……目の前に再現しうるものしか信じないし、掘り下げない学問的態度をあらわにしてしまっている。

つまるところ、吟味し、没入すべきとされるオリジナルな心情とか感情が重視されるあまり、周囲のコンテクスト、なぜその表象が遺ってきたかという「かたり」のメカニズムが充分維持されてこなかったのだ。取り上げられても好奇の目にさらされるばかりで、絶えてしまった表象も多いことだろう。言語という刺激が常態化してしまい、感覚が麻痺しつつあるのが今日の学術といえる。

現代的感性は、世代とともに成熟し、やがては老い、死滅する。寄せては返す波のように、対立や異物への拒否、排斥を延々と繰り返す。言語で書かれ、記憶されていても省みられなければしょうがない。それでも、媒体がまるきり変わってしまえば断絶は避けられない。言語や存在に鋭敏となり、古記録を振り返る、という視点は、金をばらまくのに終始する富豪や政治家にも、浮薄な児戯に終始するテレビやネットにも今のところ欠けている思潮である。

エモい物語が繰り広げられる鬼や呪術が持て囃されていても、それらがいかに守り伝えられてきたか、ましてや大和岩雄や井本英一、吉野裕子や若尾五雄等の先人の研究は一部の好事家にしか知られないのである。環境保護は声高に叫ばれているが、一部出版業の利得のために文化資本が消費され、乱造され、忘却の彼方に追いやられるリスクも考えられるべきである。古典文化のイメージの乱用は、短期的には経済的利益を生み出すだろうが、行き着く先は歴史的なアイデンティティーの喪失である。歴史的連帯を失った人間こそ、安易な自国中心主義……賛美であろうが、批判であろうが、コンテクストを掘り下げることもできない皮相な言論の大量生産に終始することになる。

古文化表象をオカルトとか、古代人の想像の世界というように言い表すのは容易い。現代人がいかに生命維持と言語活動を峻別しているか、わざわざ他者に信用を共有してもらわなくても、衣食住を満足に送れるようになったかを示している。もちろん、近代の帝国主義のように周縁から収奪し、厳しいヒエラルキーを課したうえで個個人の衣食住は成り立っていたのではあるが。地図として表現されうる空間、そして過去、現在、未来の直線的な時間。コンテクストは紙で表現可能なこれらの観点から創造されていく。捏造といった方が適当である。ノードで網目のように結ばれるべき言及の構造を、紙上にひとまず整列するにはこの他にはない。

だが、目の前の存在は、また語られるべき言語は、そうして創造された見かけのコンテクストの域外へと開かれており、しばしわれわれはその事実に畏怖するのだ。集団的な協働、そしてその基盤であり生活であるところの衣食住。これを確かなものとするのが知であり、存在であり、言語でかたられうる物語であるはずだ。

 

太陽神や大地母神への信仰、価値ある財とりわけ水にかんする時に露骨なかたりの数々は、生の持続維持のための「貯蓄」と表裏一体である。すなわち、信用を時間的空間的に完成させないと、神事なり密儀としては不十分といわざるを得ない。