マツノヤ人文学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

来たるべき労働観の変化:「労働運動」から「労働運用」へ

 新型コロナウイルスによって経済活動が大きく変貌しようとしている。しかも、学校行事や地域のイベント、そして「東京五輪」といったここ1年の動向だけではなく、テレワークや時差出勤など、今まで梃子でも動かなかった慣習的な働き方への見直しをもともなっている。

 この騒動はどのように収束するかは皆目見当がつかないが、こと「労働観」については、不可逆的な爪痕を残すのではないかと私は考えている。経済や労働についてはまるで門外漢ではあるものの、時評として論じてみたい。

 交通機関が不通になっても、通勤客が駅に居並ぶ光景がまだ記憶に新しい中で、「濃厚接触」による集団感染の危機がこうして持ち上がることは、おそらく戦後、いな明治維新以来の陸運と産業のつながりを揺るがすのみならず、われわれが当たり前のように受け入れてきた「勤勉」「禁欲」的な召命的近代職業観を見直す必要が出てくるかもしれない。

 折しもAIや人工知能によって多くの職業が淘汰されると危惧されているご時世である。仮にウイルスの猛威が収まったとしても、今まで通り満員電車に揺られながら職場に向かい、仕事を切り上げた後は深夜営業の居酒屋で酒をひっかけて終電で帰る……という従来の生活様式は、もはや通用しなくなるだろう。

 団塊世代が長い人生を持て余しているのを見れば、戦後の労働慣行としての定年制と年金制は破綻するのは明らかである。労働と余暇、現役と余生という境界(おそらくこうした労働上の明確な境界は、近代国家の「徴兵制」をモデルに築き上げられたものだろう。システム上多産多死を前提としており、これからどうなるかはわからないが、現況にはそぐわない)はますます曖昧となり、「副業」「フレックスタイム」「学びなおし」「テレワーク」など、思想や理論上の啓蒙のみならず、社会全体からの突き上げとして新たな労働観が出現することは間違いない。「就職活動」「社会人マナー」を滑稽な売り物、見世物として消費する就活産業は、いわば近代的労働観の集大成であり、断末魔なのである。

 高度に単純化された労働は、「だれでも」「なんでも」できる労働となる。専門的な負担が減るぶん価値は下がるし、指導的な熟練した労働者とそうでない労働者の格差は今よりもっと広がるだろう。とくに後者の流動性は激しくなるし、前者とていつ人工知能などに代替されるかわからない。労働者が一致団結して資本家に対抗する……という労働運動観では、多様化する労働に対応できないし、会社と労働組合、それぞれのヒエラルキーの格差の拡大、そして二重の支配を受ける弊害がシステム自体の存続を困難にしている。

 こうした危惧の中生活を維持し、リスクを最小限に抑えるため、副業を越えた兼業が社会の主流になるであろう。つまり、就職活動は今までの「椅子取りゲーム」から、まるで資産運用のポートフォリオのような「バスケット」へと変貌するというのが、私の見立てである。「神からの召命Beruf」の成れの果て、「やりがい」「夢」などという漠たるマヤカシでだましだまし働かせる現今の職業観から、少しでも労働者を引き留めるために用意されたあの手この手の「優待」を組み合わせ、主体的に生存していく労働「運用」観が一般的になるだろう。(似たような考えを提唱されている方がおられたらぜひご教示お願いいたします)国の借金はいくら発行してもよいなどという(貨幣の価値を揺るがすことでカネを動かすという意味ではある意味的を射ているとは思うが)幇間まがいの甘言を弄す暇があれば、もっと従来の労働や経済の固定観念を覆すような大胆な論を提示してもらいたいものである。

 なお、「バスケット」の中に組み合わせる労働には、知的労働たる大学の研究活動も当然含まれるだろう。以前「学融」という考えのもとで、地方大学や私立大学の地域社会への統合、そして「学行」なる、大学研究の管理手法が金融システムへの接近するのではないかという未来予想図を述べたことがあるので、そこも参照いただきたい。

 

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