マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

言語:文化と文法

 このブログでは何度か言語について取り上げてきた。「ポスト・オリエント学」「情報文化圏交渉比較環境人文学」といういささか皮肉めいた題名で研究してきたことは、歴史や文学のみならず、人間の行動の規範となる科学全般が、いかに社会集団の地域的、通時的交流に依存されるか――シルクロード海上交易的なつながりを例にして、錬金術や祭祀呪術、神話の拡がりをまとめてみようという試みであった。

 

 吉野裕子(陰陽五行説)、伊藤義教(ゾロアスター教研究)井本英一(イラン学から東西説話交渉史)、佐藤任(インド密教史・錬金術史)、白川静(中国古代史)、澤田瑞穂道教・中国説話研究)、吉野裕(古事記から冶金史)若尾五雄(物質民俗学)、真弓常忠(古代日本の冶金研究)など、前世紀の研究者たちの野心的な論を総合すれば、「世界神話学」のような人類の移動や染色体グループによる神話研究とは違った、技術の往来とともに神秘的世界観が混淆していった様態が明らかになる。

 

 「霊魂」にまつわる神話的言説は、酒や香料や金属、そして米や小麦など、純化が必要なあらゆる事物と人間のアナロジーによって生まれたものである……ということがわかってくる。祭祀は、それらを支える労働を「まねる」ことで(農耕、ときに性行為が選ばれる。しかしながら近代的に思い描かれるような、素朴な「農耕」、エロティックな「性行為」の意味合いとは異なる)霊魂ないし真理を解釈しようと試みる。そうすることで、空間や時間上の一点一点に特別な意味を持たせる作用が――「聖性」をもつ「権威」として生まれるだろう。これが各地域、各時代の「文化」である。現代の政治、経済、文学、宗教、マスメディアなどの大衆芸能、公共圏などは、これら古代中世の人文学が科学へと変貌するにしたがって細分化して観察されたものであるといえる。

 

 以上に述べたのが文化の説明であるが、これは言語のいち側面にすぎない。言語が文化を拡散するには、しかるべき「文法」を伴う必要がある。そして文法が異なれば、文化の境界もおのずと現れてくる。

 

 現今行われている言語学的比較や考察は、この構想を説明するには不十分である。それらは文化による障壁を守るべき言語的「規範」として、構造の考察と混同している。彼ら言語学者の関心は、正確な音声表記、術語を用いた言語標本のコレクションであるが、それらは「首都/地方(方言)」や、「幼児・病人/大人(役割語)」、「現代/古代」などの、前時代に確立されたコロニアリズム的社会構造を、無意識に当てはめるものである。

 

 印欧祖語や、たとえば民俗学といったプリズムを通して、古代や中世の言語行為を観察する「意味合い」をどれほど正確に認識しているだろうか?それは、新しい科学的分析の方法論や、ポストコロニアリズムカウンターカルチャーフェミニズムなどの政治的主張が学問に浸透しても「お題目」程度のものであって、範型的にはさほどかわらない、さながら中世の「転倒した世界」的虚構にすぎないという危惧である。

 

 それではどのような方法で言語、文法を考えればよいのだろうか。まだ模索中ではあるが、「信用」という概念を用いて記述することを只今企図している。信用とは、連続し、連関し、一貫性をもつとみなされるような関係や範囲のひとかたまりのことを指す。

 

 言語はその本性から、辞典の一項目ではなく、貨幣や金券(チケット)のようなものである。本来の意味とされる語義、社会的に認められた比喩などの転用、歴史的変遷を漠然と考えながら、我われは言語を操る。「ピーターがポールを殴る」といった日常的な文脈から、「犬も歩けば棒にあたる」といったことわざ・格言、はては「無色の緑が猛烈に眠る」というナンセンスな言葉の塊でさえ、何かとして払い戻されることを企図して発される。それは額面とその対価を信用して貨幣や金券がやり取りされるのと似ており、我われは物価変動や国家の存亡をそれほど予測せず無邪気に貯金するのと同じく、いつ通用しなくなるかわからない現代語法でしゃべり、記録を行っている。

 

 ふつうは、現代日本の大多数の人間が理解できるような言葉が、現代日本語として記述されるのであり(このブログを除いては)、それは辞書を用いて逐語的に外国語に翻訳しても意味が取れないのは当然である。両言語の文化的背景を押さえ翻訳することが会話においても文章においても求められており、それは私的な言語領域から集団への表現においても同じことが言える。

 

 説話では、角の生えた鬼や超自然的な驚異などが「説き語られる」。古代・中世においては、それは特定の社会集団において自然現象や協働のための固有のコードをもって語られていたが、それが広域に広がるにつれ本来の意味をなさなくなり、「迷信」とか「おとぎばなし」といったレッテルを貼られることとなった。民族・国家の「精神」の体現であるとか、機知、美の表現だという「合理的」な説明がなされたり、こどもや野蛮人に道徳を「教育する」という目的のもとで改変が行われたりするのである。

 

 説話と社会集団の分離は、経済や政治など、近代的に再編された「信用」にもとづく社会的秩序に――カーストや差別の問題や、教養と大衆文化の両極化、卑小化、細分化といった全体像の見えない状況を作り出した。そして言語が担ってきた枠組み、役割自体が過小評価され、(近代社会で「信用」が持たれるような)合理的なロゴスを(記号的に)説明、証明するのに、「自然言語」は力不足であるという神話が広く行われたのである。

 

 記号や等号を用いた数学のロゴスは、言語のほんの特殊な一例にすぎない。何度も述べてきたように、言語とは「劇的」に「説き‐語る」ことにより、社会集団を「融き象る」ことである。歌垣の歌謡、フォルムのローマ法、シングのサガ、城市の百家争鳴、アゴラの哲学――そのどれもが「劇的」な物語を有し、社会集団を「信用」によりまとめてきた。それは現代のアカデミズム的言論やマーケットで繰り広げられる金融とは精緻さなどでは異なるが、本質としてはどれも「語り」の歴史の一端であるはずだ。

 

追記

 このブログでは「体」と「用」がつくことばや、「モノ」や「コト」とつくことばを注意して用いてきた。前者は幾何学的な「点、線、面、体、作用」や、日本語の「体言、用言」、そして禅の「体」と「用(ゆう)」を念頭に、後者は「モノがたり」や「できゴト」、並びに廣松渉和辻哲郎の哲学研究を鑑みた表現により、体(もの)を用(こと)が包摂し、一箇の変化を受け容れるような入れ子構造となることを思い描いた上の叙述である。

 

 「受動」は体、モノ的表現(名詞的)であり、「能動」は用、コト的表現(動詞的)である、他動詞、それにまつわる格や助詞は前者、自動詞のそれは後者……と当てはめていくと、文法的範疇にある傾向を見出すことができる。そして、中動的表現は両者を媒介する特殊性を持ち、より「信用」を持たせることが――仮定的な婉曲表現や、物語文学の敬語表現が意味するところに近い――明らか「となるであろう」。いまではすっかりなじみとなってしまった「思われる、考えられる」といった学者語法、「させていただく」や「こちら~になります」といった敬語表現は、それらのもつ特異的な社会性にフォーカスされて考えられるべきだ。

 

 言語学が文法的誤り、語源的誤りを詮索するところから脱し、より抽象的に言語を研究するために、ここに問題提起を行いたい。

即効性、瞬間風速、最大震度……

 持続的、持続性、持続可能性ということが煩く言われるようになって久しいが、実現されているところを見たためしがない。それどころか不思議と、どの界隈においても持続すればするほどボロが出る。もっとも、政治家がよく不快なくらい繰り返すようにそれを「驕り」とか「緩み」などと精神論的に片づけてしまうと、事態はもっとこじれてしまう。

 

 文明国に追いつき追い越せ、戦後復興、先進国の仲間入りという目標のもと、科学技術を取り入れていくと、しぜん「即効性」が高いものばかりが選び取られることとなる。大学教育も人材育成も、「即戦力」となりうる人間を求め、海外からもかき集める。そればかりか、観察に時間の掛かったり、比較を要する現象でも、拙速な結論を「即戦力」として採用してしまうのだ。

 

 日清・日露の勝利、戦後の経済成長といった先の目標の達成にはこうした瞬発力がいかんなく発揮される。しかし、長期化するのが目に見えている戦争や政権運営、そして感染病対策には、まったくもって不向き、むしろ害となるといっていいだろう。

 

 「即効性」に長けるが、「持久力」の欠如した視点は、簡単に見分けることができる。この災害の時代にあって、「百年に一度」「最大瞬間風速」「最大震度」「戦後最悪」という仰々しい言葉を何回聞いたことか。テレビの視聴率戦争、SNSのバズり、動画サイトの再生数稼ぎ……仕事の疲れが吹き飛ぶ動物や子どもの動画、ノスタルジーを掻き立てる懐かしの映像と、「老い」から現実逃避できる健康食品や医薬品のコマーシャル、低予算で中身のない、ニュースとかジャーナリズムとも言えない、単なる話題のまとめ……

 

 一時しのぎに「痛み」を先延ばしにするが、緩慢とした苦痛を味わわせる社会。取り上げられる話題はいつも0か1か。単純化しないと即決できないから、都合のいい情報の切り抜き、フレーミングができる人間が必要とされる。細分化された情報は二度と相互的な連関を取り戻すことはないだろう。

 

 そしてそれまで理路整然と営まれてきた「即戦力」的社会生活が、一度緊張を途切らすと――アノミー、混沌、カタストロフによって何もかも破壊されてしまう。買占め価格を吊り上げる「闇市」、女性の人身売買が公言され公然と行われる日常、外国崇拝――過去に「敗戦」としてとらえられてきた事象が、このコロナ禍で再来しないとは限らない(皮肉)。現にこの防空壕生活に持久力を切らし、なにか「即効性」のあるものにすがりつこうとする衝動が――「八つ当たり」的気散じともいうが――随所で見られる。

 

 おそらく、というかすでに「驕り」や「緩み」、「我慢」や「自粛」といった自罰的な精神主義でさらに抑え込もうとする圧力も見られる。都道府県や国のトップが出てきて、学校教師が「ハイ、みんなが静かになるまで何分かかりました」「家に帰るまでが遠足です」と言う程度の内容をわざわざ「言わされている」のには嫌気がさす。政治運営、緊急事態には持続性が求められるのであって、そういうその場しのぎの言論を乱発するべきではないのだ。

 

 このコロナ禍の時代のあとも、「即戦力」の時代は何事もなかったように続いていくだろう。たとえば橋下徹ホリエモン、そして再生数、視聴率の実績のある芸能人などは「即戦力」教祖として影響力をより広げていくに違いない。芸能人の政治的発言については、自分を海外のセレブか何かと勘違いして、事務所やマスコミ、スポンサー企業の間の「商品」である意識を忘れないかぎりは(いわゆる「干される」)、大いに結構であると思う。

 

 心にとめなければならないのは、一時的な感情に衝き動かされず、自ら考えて行動できるように、学びを着実に積み重ねられるような環境を構築する――いつ来るかわからない緊急事態において、「なにもかも自粛」ではなく「みずから考えて行動できる」持続性を持った人間を育てる環境を作っていくことである。

一億総博知時代

 タイトルははっきり言って皮肉である。SNSとかあっても、使う人間が8割が凡庸、2割が怠け者なものだから、じつはスマートにもソーシャルにもなっていないのである。

 

 コロナ禍以来、「若者の消費」を抑えろ、抑えろという論説が目に付くようになった。送別会やコンパが「クラスター」となった経緯があるからで、大学はそのあおりで閉鎖が続いているのはわかっている。しかし、以前は「若者の消費」はむしろ馬鹿にされるくらい低調なものだったことを忘れてはならない。ああ、こうして嘘が嘘で塗り固められていく。「ジュリアナ東京」がバブルの象徴のように喧伝され、ユダヤ人が陰謀論で迫害される。新聞やテレビが言い出したらレッドネックでも他県ナンバーの車でも排斥しようとする。

 

 インターネットはそうしたウェットな空気が嫌いなへそ曲がりの作り上げた文化圏だと思っていたが、いつの間にかジメジメと湿気ってしまった。とうてい69年のスピリットは保存できない環境だし、もうチェックアウトもできない実名社会である。

 

 

 テレビを点けるとルーブル美術館の美術品管理について放送している。何でも「タンタンの冒険」に着想を得て、古代エジプトの棺を立てて置くことにしたそうだ。わーすごい。立てて置くダメージとかはもちろん考えているのだろうが、隠されている足の部分に価値がないとでも言わんばかりの「展示」である。天下のルーブルでさえこのような見てくれ重視なのだから、国内の美術館や博物館でもこうしたヴァンダリズムが横行しているのかもしれない。

 

 大津市立歴史博物館の仏像展示についているキャッチコピーは、目にすると脳みそが融けそうになるが、まああれはまだいい。まだ知的なペーソスが残っている。

 

 

 そういえば今日は鳥獣戯画の番組も放映されていた。マンガやアニメの元祖、いかに可愛く、自然で平和な描写に溢れているか……ディズニーランドで脳みそを蜂蜜漬けにされているような素敵な感想をどうもありがとう。たぶん描かれた当時猿やウサギやカエルが持っていた象徴の分析とかはテレビ受けしないのだろう。道教とか、庚申待とか……そして後白河法皇サブカルオタクの元祖なのである。フェリペ2世ブリューゲルのコレクションや、ルドルフ2世の「驚異の部屋」のような、バロック的な博物学が持っていた「統治」への欲望は、たとえばヴィクトリア朝の家具のごたごたした装飾や骨董品コレクションのような、なにか別の、ごく小市民的なささやかなものに変換されつつあるのだ。

 

 ヴァンダリズムというか、美術というのが無知が原動力の詐欺だと気づかされるのは、歩いていると目にする村上隆とかの絵画、なんでも鑑定団、それにバンクシーをめぐる報道である。岡倉天心フェノロサが苦心して築き上げ、和辻哲郎が狂信した日本の美的センスというペテンが、くたくたと蕩けていく。美術というのはさしずめ買ったときの金額からゼロが後ろに何個付くかであり、ユーモアのない美大生がカネとコネで作り上げるもので、誰かが「いいね」するものを「いいね」し返して拡散することなのである。もしバンクシーが金儲けとか歯の浮つく綺麗事だけ本気で考えているのでなく、この種のシンプルさを風刺しているのだとしたら尊敬する。

 

 

 美術に限らず、アタマを使うコンテンツはもはやご入り用ではない。多くの人びとにとってはアタマを使うというのは自分のかんがえる理屈で何かを追求したり、新しい解釈を産みだすとかではなく、お気に入りのモノをコレクションして見せびらかすことなのである。さあ、みんな#をつけて政権に抗議しよう。そうしたらお友達にアタマを使っていることをひけらかすことができるから。

#『市民ケーン』が最高の映画とかいう風潮に抗議します

 もし大学の講師だったらこんな授業をすると思う。

 

www.businessinsider.jp

 

 2020年になってもなお『市民ケーン』が史上最高の映画だそうだ。

 

 こういう「映画通」の選ぶ映画というのは、ご多分に漏れず「懐古」や「思い出補正」が入っているし、最新の映画を推したは推したで「ミーハー気質」や「業界のお手盛り」などを差し引いて考えなければならない。テレビや雑誌でごり押される映画は、たいてい放送法かなんかで「番組」として放映されることを条件に宣伝されている。アニメやマンガが原作のコスプレ学芸会を有難がって見ている連中もいる。

 

 ハリウッド映画も似たり寄ったりで、さほど変わることはない。近頃は剽窃などのやかましい権利関係を追及されないためか、アメコミの映画化ばかり。白黒時代の大げさながら巧みな演技やモンタージュはすっかり姿を消し、弱気な主人公がくどくどと文句をたれたり仲間割れを起こしながら時間をつぶす。そのくせ政治的主張や商業コマーシャルだけは大声をあげてやってのける。使用されるCGの資金稼ぎである。

 すでに映画で繰り広げられているのは演技ではない。カメラの前でどれだけ醜く、派手にわめき散らかすか、「映画」の皮を被ったつまらないマーケティングは成立しているのである。

 

 さて、そんな中で『市民ケーン』が1位を取ったのにどういう意味があるか。たぶん、これはオーウェルの『1984年』や『動物農場』を売るために編集者や書店員が書く推薦文と同じ理屈である。つまり、「これぞディストピア!」「現代に通ずる不朽の名作!」といった薄っぺらなキャッチ・コピー。

 

気になる『市民ケーン』のあらすじは?意味深な「バラの蕾」の正体を調べてみました!

 数々のスキャンダルにまみれた新聞王ケーンが最期に残した「バラの蕾」なる言葉は一体何を指していたのか?なんと、それは相続した莫大な富と引き換えに失ってしまった子ども時代の象徴、ソリの「バラの蕾」号でした!だけどもそれは遺産整理の時にゴミと間違えて燃やされてしまい、永遠の謎となってしまったのでした、チャンチャン!

 

 いかがでしたか?『市民ケーン』は名作なので、ブログでは書ききれない魅力がたくさんあります!パブリック・ドメインなのでネット上でも容易に視聴が可能です。ぜひご覧くださいね!

 

 などというまとめブログ的なあらすじを思い描きながら見て、「ああ、トランプが異常で幼稚な政治運営を行っているのは、市民ケーンと同じように富で人生が狂わされたからだ」、とか「安倍が自分に従う取り巻きで三権分立を亡き者にし、言論を封殺し政権にすがりつくのはまるで『市民ケーン』を見ているようだ」なんていう感想を抱いた御仁がいたとしたら、(それはそれで勝手であるが)冒頭に思わずこぼしてしまった映画の衰退は、こうしたつまらない映画ファンのせいなのだと思う。

 

 そういった意味で、オーウェルの作品のつまらないもち上げられ方と同じ既視感を抱くのだ。たぶんオーウェルの作品の読み方も、描かれているディストピアを完全なフィクションとか過去の遺物として、現実世界と切り離して読む人間(「これぞディストピア!」)と、たとえば現代のトランプ政権とか安倍政権とか北朝鮮とか中国とかロシアとか、自分の嫌いな政治体制に当てはめて満足する人間(「現代に通ずる不朽の名作!」)のどちらかなのである。

 

 じっさい動物農場のアニメ映画は思いっきり共産主義に当てこすったうえで結末も改変されている。でも、西側の体制だって、ドゴールの強権とか、イギリスの停滞を招いた鬱屈した階級社会、アメリカの理不尽な赤狩りといった「農場」と似たり寄ったりのものだったのである。そうした意味の現代の批評、示唆に富んでいるからこそ「名作」なのだ。

 

 なんというか、そういう自分を客観視できる新たな別の視点の提示、というのは人類の素晴らしい文化的営為、「検閲」によってかき消されてしまう類のものなのだ。ヴォルテールが何を言おうが、自分の好きなものしか見たくないし聞きたくもないから「言論の自由」を振りかざす文化人も、りっぱな「検閲」主義者である。そういう私も自分と違う立場にはきわめて不寛容な、りっぱな「検閲」主義者である。モンティ・パイソンの「ライフ・オブ・ブライアン」をめぐる論争を嗤ってなんかいられない。

 

 話がそれた。「市民ケーン」は、全体として記者の又聞きによる新聞王ケーンの人生の構築であり、「信頼できない語り手」の大将みたいな映画である。「バラの蕾」の正体が知りたいというゴシップ的興味から人生を追跡しているだけで、結局「子ども時代の幸せが失われた」という一応ウェルズが示唆する結末にも、たどり着かないままなのである。

 

 しかも、取材相手は死んだ後見人の回顧録、腰巾着、記事で衝突し失脚した友人、無理にオペラ歌手にされた元奥さんといった、ケーンの真意がわかるはずもない人間ばかり。そいつらがあることないことを喋りまくる。しかし、それっぽーく時系列で語られているから、まるで「子ども時代の純粋で幸せな体験が失われた男の、暴走の一代記」みたいにミスリードしてしまう。とくに日本人には、母親を喪って永遠の女性を追い求める「光源氏」とかと近い、親しみやすい一パーソナリティに見えてしまう。

 

 

 でも、別に「バラの蕾」のソリが焼かれたって、市民ケーンの純粋な子ども時代が失われたわけではない。むしろ、その後のケーンの人生はまるっきりソリ滑りで遊ぶコドモである。新聞を買収してみたり、海外でよくわからん美術品を買いあさってみたり、政治活動してみたり、愛人をオペラ歌手にしてみたり……なまじ金の使い方が驚くほど子どもじみていて下手だから、遊びがわからない人びとの好奇の目や謀略にさらされることとなり、まわりを不幸にさせるのである。結果として、周りの人物をソリのように乱暴に扱って遊んでしまうのだ。

 

 「火星人襲来」とかでアメリカ全土をオモチャにした前科があり、その後も終生映画作りに苦汁を嘗めることとなるウェルズの自戒が描かれた映画であると思う。でも、一般的にはこの映画は悪名高い新聞王ウィリアム・ハーストを元ネタにしたと考えられ、ハースト本人を激怒させた。そうした醜聞的でセンセーショナルな見方が、オーソン・ウェルズの人生を狂わせることになった。

 

 ケーンはメディア王だがコミュ障だ。さいごに出てくる立ち入り禁止の看板は、たぶん人生の終焉に際して、自分の心をさらけ出していたつもりだったが、だれも「立ち入ってくれなかった」ケーンの絶望のように感じる。でも、市民ケーンが現代人の病理を予見していたのである!と告発する気にはならない。すくなからず皆が経験したことであるだろうから。

 

 まあ、うろ覚えのあらすじから考えた愚説なのであるが。

 

 最後にくだらない自分語りである。去年の正月に映画を見て、この見方を発見して以来、すっかり『市民ケーン』に染まった。というよりむしろケーンの影が強迫観念としてこびりつき離れない。もともと自己を表現するのは(いくつかのくだらない創作や研究をのぞき)苦手だったが、本当に苦手になってしまった。友人づきあいも、所詮他人を利用したソリ遊びに見えてしまう……そのうち何人かとは、ほんとに疎遠になってしまった。

 

 「報連相ができていない」「自分勝手」と叱られ続け、出版社は就職してすぐに辞めてしまったし、夏から1月まで続けてきた末期がんの母の見舞い、看取りも、所詮は「自己満足」だったんじゃないかと思えてくる。コロナ禍で、再就職もうまく進まないし、アルバイトや派遣も中途半端に始めてしまうといけないじゃないかと考えてしまい、社会復帰がいまだにできていない。

 

 そのくせ、偉そうに私的研究所を作り、不遜な物言いを続けている。不思議と「完璧主義」なのか何なのか、アカデミズムや社会に聞き入れられる自信がないのにである。風刺活動をしていても、動画や小説やマンガを描いていても、新興宗教をつくろうとしていても、ユーモアを誰にも拾ってくれない一抹の寂しさから、だんだん自信がなくなってしまう。ソーシャル・ネットワークのお歴々のサブカルめいた知識のひけらかしあいにも幻滅してしまい、アウトプットはますます苦手になっていくばかり。就職しようにも面接でいい経験をしたためしがないので、練習を避け、現実逃避にこんな記事を書きなぐる毎日である。そんなんだから自信満々に「自己表現」したためしのない相手から「発達障害」「自己中」って言われるのよ。あーあ。

人文学的「情報機関」について

 人文学はただ専門的に研究されるだけではなく、それを総合的に集約し、分析する場を必要としている。

 

 再三述べてきたことだが、文系学部の知識は役に立たないといわれる。歴史や哲学、文学は、娯楽や教訓くらいにしか認識されていない。大学院に進学し、専門の研究を行うキャリアパスも存在するが、日常生活とは徹底的に無縁の領域と見なされている。こうした無関心のため、大学院生や研究者の苦境、資金や出版などの環境の悪化は、改善される気配がない。

 

 それは、第二次世界大戦以前の人文学的教養が、西洋文明に追いつくための模倣と、その反動としての国粋的、東洋的なものの賛美という極端な二極化傾向にあったことと無関係ではない。科学技術文明を取り入れるという拙速な動機のため、伝統的な人文学ははじめ迷信として退けられ、ヨーロッパの目を通した「神秘的」な現象や、国民国家を発展させるための「道徳的」な規範のフィルターでろ過された言説しか評価されてこなかった。

 

 人文学が活きるべき言論の場である、大学やジャーナリズムすら、明治維新以降、科学技術を学修するシステムのついでに急ごしらえで作られたものに過ぎない。伝統的な精神に規範を求める「教養」とその抵抗として広範な影響力をもった「大衆文化」が、マス・メディアの勃興とともに爆発的に拡がっていった。これはヨーロッパでも共時的に進行しており、全体主義プロパガンダの時代を経て、戦争による破局的結末を迎えるまで、時事教養がオカルトや陰謀論、精神論などの大衆煽動と混在して摂取されてきたのである。

 

  そうした事実を無視して、ただすべて終わってから「私は内心は全体主義に抵抗してきた」と弁明する人間が、ジャーナリズムでもてはやされ、社会的に是とされてきた。「勝てば官軍」である。のど元過ぎれば何とやらということで、大衆煽動は変わらず喧伝されつづける。大衆煽動や群集心理を嘲笑するように見えても、知識人自体がその陶冶の過程で(自覚するかはともかく)精神論などの理不尽な行動様式を刷り込まれているため、根本的に改まることがないのだ。

 

 戦後体制でもその傾向は変わらなかったように見える。センセーショナルな報道、学歴学閥社会、サブ・カルチャー的大衆文化……復興、成長のためにはつねに新奇な情報が求められ、伝統的な人文学はますます沈潜していった。新興宗教原理主義が停滞テロリズム世代間対立、東京一極集中、研究領域の細分化といった要因が積み重なり、学際的かつ大局的な見通しのもとで学問を行うことは難しくなっている。

 

 そのいっぽうで、近年(コロナウイルスの情報氾濫によって霧消してしまったが)フェイク・ニュースやファクト・チェックといった情報の質が問題とされることがあった――結局、既存の「権威」への服従、営利を追求した末に無軌道に拡張したソーシャル・ネットワークへのマス・メディアのやっかみ、ささやかな抵抗の域を出なかったのであるが。

 

 当事者は「フェイクニュース」撲滅や、「衆愚政治」打倒といった大義名分のもとで情報を選択していると思い込んでいるが、その実態は選別、検閲、弾圧、集団煽動の衝突であり、「魔女狩り」や「神仏分離」、「赤狩り」、あるいは話題の「自粛警察」などと変わらない狂信である。そして最たる問題点が、これらの時事的トピックにせいぜい通説的「群集心理」「民衆的心性」とかは引用され語られることはあっても、歴史や人文学の最新的な研究結果が援用されることがなかったのである。否、豊富なリソースを参照するだけの知的なインフラが整備されていないのである。

 

 戦国や幕末を描いた小説やマンガ・アニメは人口に幅広く膾炙しており、「クール・ジャパン」などと観光などに宣伝することは行われている。たとえば、「応仁の乱」がベストセラーになったときは、関連書籍が雨後の竹の子のように出てきた。ギリシア・ローマや三国志の英雄、フランス・ドイツなどへ親近感を抱き、世界史を勉強する御仁も多い。しかしそれは遠い世界の出来事であり、現実世界の問題に資する知的集積として分析することについては考えられていないだろう。

 

 人文学は「鏡」である。しかしそれは教訓とか「あの人種、国家、民族はこういう歴史的経緯をもっている、歴史は繰り返す」といった偏見的見地ではなく、万人がこれから直面しうる問題として、最悪の事態を経験する前にアクセスしうる知識として利用できる教養であるべきだ。むしろ前近代的な口承を含めたリテラシーは、国家や民族、宗教といった排他的な枠組みではなく、緩やかなネットワークとしてこの役目をはたしていたはずなのである。読み書きの「教育」が文明化の責務とともに強制されたとき、こうした文化は破壊され、忘却されていった。

 

 スパイや工作員デマゴーグが暗躍するような派手な「情報機関」でなく、現今の問題にたいする相互認識、共通理解の向上に資する人文学的「情報機関」を構築することが、ポスト・コロナ、ポスト・ソーシャル・ネットワークの時代に求められるだろう。本研究所は、実のところこうした構想のもとで設立され、研究を進めてきた。前に述べてきた、参考文献のリストや研究を売り買いして地域社会や企業広報などの活動に役立てる「学融」「学行」構想も、また説話の型に古代中世の交易路や神話の影響を認める論なども、人文学的「情報機関」のために準備してきたことなのである。

 

 古くからあるもの、今あるものを効率的に活用できる知的なネットワーク、インフラ作り、などというものは、国や実業家、一部の大学が推進するような、海外の真似をして新しいものを大量の資金をかけて導入する潮流から真っ向と対立しており、賛同者を得られる自信もないことなのであるが。

フォークロアの研究――いわゆる「都市伝説」「集団幻覚」から

 「科学文明社会」を生きる人間においては、迷信におちいることは恥ずべきこととされている。その一方で、全体主義や都市伝説、疑似科学など、およそ現代人とは似ても似つかない迷信的な信仰をもつ人びとを、近現代の狂騒は生み出してきた。

 

 現今の「コロナ禍」や、その他の流行現象もそうした迷信に分類される日が来るだろう。いくらウイルスの飛沫感染が防げるとはいえ、繊維よりもはるかに微細なウイルスをマスクで防御するといった発想は迷信的である。しかしそれでもマスクは買い占められて店頭から消えた。ウイルス感染を実効的に防ぐというより、我われがウイルスからいかに隔離されて清浄かということを「表象する」ことに重きが置かれ、社会が変質していくこととなった。かくしてマスク、接客や受付のカウンターのビニール仕切り、テレビ会議の画面は生活様式となった。

 

 合成などでいつもどおりの接近した状況を演出できるはずのテレビですら、「視聴者への配慮」としてリモート出演や間引きを行い、あまつさえ「緊急事態以前の録画」などとの但し書きなどで演出している。これは決して視聴者のリテラシーが低くささいな密着に苦情を入れるという現象だけではない。もっと意義深い学びを得ることができる。

 

 人間社会はあえて正常さという「迷信」を作り出す。そしてそれを表象する。こうした社会の変質の好例に立ち会っているのだ。我われは「物語る」という行為とその産物――理知的なディスクールや、一見対照的ともいえるフォークロアの研究を通じて観察することができる。

 

 なぜ我われは異常を異常なほど憎むほど「正常」なのか。その答えは簡単である。古来より「文明社会」は、ある時期において通用してきた「迷信」や「狂気」といった恥ずべき行為として規定し、切り捨てることで共同体の正常さを装ってきたからである。もとより「正常さ」とは曖昧なもので、敵である「異常」を祭り上げることでしかその姿を表象することはできない。

 

 以上は正直ミシェル・フーコーを手繰れば容易に見つけることのできる考えであり、数万の学者がすでに通過したところ、いわば「時代遅れ」であろうが、西欧哲学の流れのもとでとらえられてきたこのメカニズムを、たとえば民話学とかその他の「畑違い」の領域と一緒に論ずることは無駄ではないだろう。

 

 すくなくとも戦後の言論においては、出版受けやバズりのするようなセンセーショナルなものではない、着実な積み重ねに時評をする環境が絶無である。海外の流行を模倣し、分かりやすい表層を掬うような研究者が好まれ、井の中の蛙のようなスペシャリストが尊ばれるのは仕方がないことなのだ。科学技術を西欧から取り入れるための大学というシステムの導入――模倣から運命づけられていたことだ。

 

 迷信を排除し正常さを演出するメカニズムは導入しても、その全体を客観的に観察する集積が構築されずじまいであった。「都市伝説」「全体主義プロパガンダ」「疑似科学」「集団幻覚」「カルト宗教」「詐欺」を糾弾する人間はいくらでもいる。しかしてそれらについて総合的に考え自省する人間はいない。

 

 この盲点は作者から読者という旧来の一方通行的なコミュニケーション、近代の出版文化から生まれた驕慢であったといっても過言ではない。日ごろそのヒエラルキー下で「精神論」を戒め、「自浄作用」を求め、「デマによる迫害」を悲劇として語り伝える人間であっても、アナーキーに際しては無力としか言いようがない。「お前が言うな」「いざその立場に置かれたら自分もそうする」「人それぞれだ」といった態度を決め込むことは容易であるが、戦争、震災、疫病といったアナーキーを経験して、言論なり研究を完成することは難しいことが、現今の状況――「歴史は繰り返す」と端的にいえるようなこの惨状から見て取れる。

 

 「書かれた」言説の世界は、前述のごとく作者対読者の一方的な伝達、伝承をモデルにしたヒエラルキーを仮想しているが、現実は――誤解される可能性もあるが、書かれざる口承文学の世界という言葉を用いれば――噂に尾ひれが付くという言葉で象徴されるがごとく、相互に生成し合うオープンかつアナーキーな領域なのである。不特定多数との対面による伝達、伝承により「常識」や「慣習」が形成され、見えないけれども確かに存在する境界線によって内外が区別される。

 

 戦争や震災、疫病による明らかな生活様式の変化は、ヒエラルキーによって統率されていたはずのアナーキーを変動させる要因である。それは、社会的な「対面」の形式の変化によってそれに付随する文化に決定的な改変をもたらすことにより、それに釣り合う「語り」を生じさせる。「未知」の現象、緊急事態に対する新たな取り決めへの模索である。

 

 思うに、「都市伝説」「集団幻覚」「疑似科学」とかといった迷信はこうした事情のもとで「生成」され、排除される。フライドチキン用の何本も足のあるニワトリとか、下水道に住む白ワニという表象は、個々としては「敗戦によるアメリカ文化の流行、選好」や「都市化による地下上下水道、暗渠といった未知の領域に対する説明」といったれっきとした存在理由があったものと思われる。

 

 かつ、そこにはアナーキーな対話を阻害するようなコミュニケーションの拒絶や一方的なコミュニケーションへのカウンターという性質を帯びている。突然出現した外来の新設備、従業員と客によるやり取り、そして秘密のレシピという売り文句は、古くからそこに存在する地形や建築物と同等の説明体系を要求する。古い伝統的な都市空間だからこそ、新しい異質な事物を常に必要するという事情もまた伴う。この交錯した状況が、「迷信」という一時的信仰を、集団幻覚という運動の原動力でもあるのだろう。

 

 そしてそれは従来未開や素朴とされる「呪術」――虫を使った呪詛や、人型を川に流す風習、雨乞いや豊作などの予祝にも、たとえば蚕が絹糸を産生し莫大な富をもたらしたこと、河川で人品の交易がおこなわれた事実、金属精錬や狩猟などの技術を必要とした神仏祭祀が、農業共同体の中で維持され、変化してきたことなどを想起させる。

 

 それなりの背景をもって語られた物語が、コンテクストを離れ伝承されていった経緯が忘れ去られ、「迷信」となっていく。これらを科学社会や文明社会といったフィルターにかけ、むりやり合理化したり、国家や民族固有の「精神」として価値を見出すことにより、無批判な「幻覚」として再生産されてきたのが、近現代社会の「物語」の正体である。

 

 現在の社会も、フォークロア、コークロア、ネットロアにつづく「テレワークロア」を生み出すだろうことを、ここに予言しておこう。願わくは「田舎での疎開生活は辛く苦しいものだった、だから戦争は繰り返すものではない」といった都市生活者の権威的な言説が見え隠れするような戦争体験の域を出ないテレワークロアが生まれないことを願うのみである。否、すでに生まれつつある。「マスクやホットケーキミックスが転売され店から消える」「外食宅配サービス従事者の交通事故死」「コロナ患者の家への差別的落書き」などの表象は、すでにその兆候をみせ始めている。フォークロアの起因するコミュニケーションの欠如や差別は、単純に語り伝え、戒めるだけではなくならない、深刻な構造を呈しているのだから。

自粛の黙示録(Apocalypse Nowadays)

 出口の見えない自粛がつづく。テレビを見ていてもSNSを眺めていても、誰々はこうして我慢している、だからお前らも自粛しろだのとやせ我慢の見せ合いになってしまっている。あるいはお国のためにと見栄を張り、マスクやガウンづくりに精を出す。

 

 すっかり戦時中のあり様だ。8月の戦争特集で東京裁判大本営発表について偉そうなご高説を垂れていた新聞テレビが、兵隊さん頑張れの調子で医療従事者を激励し、徴用工や慰安婦問題にあれだけ良識ぶりながら、水商売の女性や外国人労働者の苦境を美談に仕立て上げる。ずいぶん呑気なダブル・スタンダードである。歴史認識は都合のよい金稼ぎの手段であり、全く現実に応用のきかない代物であることが露呈してしまったのであるが。

 

 例えば学生が授業を中止し、コロナ前線にボランティアとして配備されないかぎりは、この呑気な時代の思潮は改まらないだろう。ある意味楽しみでならない。コロナ禍が収まったら、どのように世界が変わるのかが見ものであるから。

 

 戦前の立身出世のモデルが兵隊だったように、現代は医学部出が大学のカースト頂点という認識がある。しかし第二次世界大戦に兵隊の非道な行為が暴露されたように、医療行為もまた欺瞞や隠蔽が暴露され、「二度と繰り返さない」歴史の過ちとなる可能性がある。戦後ならば軍備はアメリカに依存することとなったが、そうなってしまっては医療はどこに向かうだろうか。

 

 報道を見ていても、「陽性」の判断への苦悩がすでに垣間見える。思うに、医師の判断や決定が生存を左右するのを忌避する風潮になるのではないか。まさか早死にや姥捨て山が賛美されるまでにはゆかぬだろう。医師や看護師を目指す人間はめったにいなくなり、AIやスパコンに任せきりになるのだろうか。

 

 自粛の辞め時も重要である。知事や市長が外出中止を呼び掛けるコマーシャルが打たれているが、彼らが「健康に対する罪」で訴えられる日がくるかもしれない。万一自粛をやめて集団感染を出してしまってもそうだが、収入が減り、家からも出られず精神的な健康を害した人間への補償も叫ばれるようになる。さすがに公職追放までにはならないとは思うけれども。

 

 そして最大に憂慮すべき事態は、コロナ倒産や経営悪化で、外国に身売りする機関や企業が出てきてしまうことである。どこの国とは言わないけれども、感染拡大の責任に賠償を請求するのは結構であるが、それが外資依存の糸口になってはならない。そうなってしまえば、アメリカとの二度の敗戦――第二次世界大戦バブル崩壊を再び繰り返すこととなる。近年の官僚や政治家、経営者は安易な解決法を選びがちであるが、いま時期は長期的な視座で行動する人間が求められている。

 

 それでも買占めや都合の良い情報の無批判な拡散など、軽薄な消費社会はしばらく収まりそうにない。報道の自由は所詮自分が言いたいだけ言う権利の主張であって、今までにない視点の発信や質の向上には結びついていないことが嫌というほどわからされた。街頭お天気カメラで逐一人出を監視し脅迫することくらいしかできないのである!マスコミが「大本営発表」ならば、SNSは「隣組」。けれどもすべては終わってからしか分からないのだ。