マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

ネオ河童駒引考:文明から文化圏へ

 ステマとかじゃない不要不急な読書レビュー。

 

 さいきん若尾五雄の「物質民俗学」にハマってしまった。日本各地のさまざまな伝承を、金属加工や治水技術と結びつけて研究するスタイルで、真弓常忠の「日本古代の鉄と神々」や、佐藤任がインド密教錬金術を結び付けて考えていたころの同時代の研究である。吉野裕子の陰陽五行説や、井本英一・伊藤義教のペルシア研究とも同時代である。

 その民俗学を集成した「物質民俗学の視点」第二巻は、河童をテーマとした昭和30年代の研究をはじめに、和泉式部行基ヤマトタケルの白鳥伝説の裏に「隠された」地理や社会的条件について取り扱っている。何でも若尾民俗学は語呂合わせや強引な付会が多く曲者というもっぱらの意見らしいが、前回書き散らしたように「語呂合わせ」というのは火のない所には立たぬ立派な説明体系なのである。水兵リーベやリアカーなきK村といった覚え方と、元素表や炎色反応といった科学的知見が別個に正当とされるべきであるように。

 河童にかかわる「駒引き」や「斬られた手」、「ひょうすべ(異称)」「金属忌避」などの要素を、若尾は農村共同体の地形や道具を利用した「治水設備」や、異形の者との契約(ちぎり)という観点、そして「兵主神」などへの信仰からひも解いていく。河童は、「カワラ(交渉が行われた場所としての河原)」や「カブロ(異能の象徴としての蓬髪姿)」、「カワリ(村人の労働のかわりを行う)」といった類音語から由来を求められることとなる。これは一見先行する柳田国男の「河童駒引」や、それに続く石田英一郎の「河童駒引考」などとは一線を画したもののように見える(若尾自身もその類のことを述べている)。とくに石田英一郎の古代神話や中世説話に出てくる水の神たちとの類型比較とは相いれないように思える。

 しかしながら、若尾の研究はいわばハード面、石田らの論考はソフト面から見た河童の正体ともいえるのではないだろうか?シルクロード海上交易路を行き来した人びと(ペルシアやインド、そして「猿」のモチーフから、チベットなど)の記憶が水神の伝説に、そして彼らが村落共同体に「恐れられながら」交易を通じて生活を共にしてきた過程が、のちに妖怪「カッパ」としてとどめられたのではないだろうか。

 そこには現代の移民や、人工知能によるシンギュラリティなどという高尚な問題以前の、道具や新来の労働者との共存にたいする「警戒」が読み取られる。シャーマンや芸能者といった異能への「畏敬」、そして不具性や野蛮、貧困への「蔑視」などが入り混じっているからきわめて厄介だ。

 近代の学者たちは技術を「文明」といった選民的、進歩的史観で読み解こうとし、ありもしない「万能人」的な考えから数々の自由を生み出したが、実際都市圏で人びとが分業し合わなければ生きていけない環境下では、さまざまな生きていくための機能を代行するサービスや、独占的な特権や慣行を引き換えに認められる。ほんらいならば農耕も狩猟も戦いも道具作りも自分でやらねばならないが、社会を作り、対話を行い、自らを敢えて専業とする。そこに特殊な力や聖なるスティグマなどを見出し、「物語る」ことによりそこに共同体の文化が成り立っていく。

 道具や新来の技術をともなった労働者(マレビト)は、今まで行われてきた調和を乱すトリックスターとなりうる。彼らと契約を結び作業を行わせる過程は「詫び証文を書かせる」「手を斬る(テキリ、チギリ)」などといった著しい誇張を伴う。そして彼らの生み出したものは異形のモノ、彼ら自身の変身、身代わりとしての妖怪として記憶されていった。前に書いたようなお菊や鬼や聖徳太子風土記オオクニヌシ、弁慶と義経などの伝説とも同じことである。かれらの歴史的実在はともかくとして、かれらに扮し魂を鎮め、道具作りや労働に従事する人びとが存在したことは疑いのない事実なのである。

 祭祀をともないながら「河原」や「宿場」という場で展開された集団的労働の伝統は、やがて独立した「芝居」「演劇」として認識されていく。ここには一種の産業革命として、機械により取って代わられてしまった労働、そしてはたらくことと密接に結びついてきたはずの祭祀の「娯楽」化といった問題が含まれている。機械が切り離したのは、働き手のみならずその「意識」、衣食住の「生活様式」もふくめてである。特別な晴れ着をまとい、弁当を食べ、芝居小屋で劇を見るというスタイルは、社会的な分業の賜物といえる。

 今や自宅で電子機器で様々なコンテンツを閲覧することができ、テレワークで在宅勤務を行う人間もいるが、実はそれはもともと機械に切り離された営みをふたたび集約する「先祖返り」といえるかもしれない。しかしながら、それでも分業はかわらず存在する。外国人労働者頼みの第一次産業コンビニエンスストア、そして外食配送サービスといった「まれびと」たちに関する民俗学は、アニメやマンガとなって空想化されてしまったカッパのそれ以上に求められている。

 コロナ禍において彼らに向けられる憎しみ、そして「裏バイト」の隠れ蓑となっているという云々は、まさしく中世のユダヤ人や戦争や災害下で移民に向けられた陰謀説などと同じ「物語」の発生源となっている。こうした考察は自由や平等といったものの空虚さ、選民意識を抱きながら便利な生活を享受する人びとの無力さと愚かさについて考えさせられるものである。

言語:連想と合理的説明

 言語は異なる境遇にある、異なる職能をもつ人びとを結び付ける紐帯である。社会とか歴史は言語の創作物として、人びとの共通観念として刻印される。これらの「物語」なるものは、記号と指示(行為と対象双方)を連関させるものとして、「連想」を不可欠とする。

 「連想」は、しかしながら、忘却され、摩耗するものなのである。横溢する生の中で解釈するという行為は、常にこの連想に評価をあたえ、より「合理的(ロゴスのある)」筋書きに更新する作用をもつ。物語は、解釈によって放棄されることもあれば、合理的な説明をあたえられ維持されることもままある。

 

 それでは、何をもって連想を合理的とみなすか。解釈を共有する共同体の規模に比例するといわなければならない。たとえば詩的な、音による連想は「民間語源」「学者語源」という評価を与えられ、広く通用することはないだろう。秘儀や密儀といった参入者の限られたコミュニティには、それに見合ったごく私的な言語体験による理解が求められる。ある種の詩や物語のもつこうした意味での荒唐無稽さは、合理的と何ら対立するものではない。

 より一般化された解釈は、多分に直截で、艶笑的なものも多い。「芸能祭祀」の多くが卑俗かつ排外的であるのは、その共同体の単一性を――それが、たとえ虚構のものだとしても――企図するゆえのことなのである。神聖な儀式で考えられてきたような「私的な言語体験」は、ここでは少数者の強烈な共感を得るために誇張される。西欧修辞学上のウェルギリウスの環でいうところの「牧歌的」、ルネッサンス以来重んぜられてきたところの「俗語」による物言いは、こうした意識下に進行し、ロマン主義的な素朴(ナイーヴ)さによって増幅され爆発的な流行を見た。しかして、国語による物語は、他者にたいする憎悪と常に隣り合わせなのである。女子供、異国人、田舎者、異教徒、性愛……活版印刷の挿絵とともにイメージ化された他者の言葉への無理解と。

 そして、共通語はそうした他者の言葉をも借用などで呑み込み、ついには究極のロゴスとして、連想を拒むかのような「婉曲表現」を多用することになる。他者を害する社会通念上不適当な表現をこうした言語で置き換えるようになれば、物語は規範として重苦しくのしかかることとなる。科学的な表現や社会的なルールにそぐわない物語は都合よく改変され、権威的な読みしかされなくなる。自由に物語る行為は病気一歩手前である一方、権威化されたテクストは語り継がれてきたコンテクストを忘却し、社会に未来永劫残存しつづけようとする。

 

 こうなってしまえば、物語ることは忘却しないがための義務と権利の問題上にある、形骸化した営みとなる。ここに一旦物語の生は途絶えるが、次世代の受け手による私的な言語体験によって、いくらでも「再生(リバイバル)」する余地が残っている。そうして魂を吹き込まれ、文化は伝達、伝承されるのだと私は考える。以上により、連想は、作者の作為から解放され、共同体が「再生した」言語体験として把握されるのである。

 

 モノの往来と人びとの交流は、ローカルな言葉による「連想」とグローバルな物質民俗学や言語や神話の類型による「説明」によって解明されるだろう。目下共同体の統合と言語の関係に関する原稿を準備中である。これは知識の単なる累積だけではなく、人類の過去の思惟と行動の記録として、現在のさまざまな問題の考察に資することを意図したものである。

空想から唯劇論へ:迷妄書き

世界的な交易路と説話のネットワークの研究

 

 共同体が社会生活を営むにあたって、ものごとの「本質」を共有することが重要である。共同体そのものが、「本質」を渇望している。

 いかなる空間(風土、社会)、そしていかなる時間(こよみ、歴史)を生きるか。説話を伝達し、伝承することは、その社会がどのようなネットワークの中で生を営んでいるかをあらわしている。

 説話について、ふたつの混同が見られる。「起源」と「産出」である。現在説話でかたられる起源は、人類の科学的起源、国家や民族の起源と安易に結び付けられて考えられることが多い。テクストがどのように記録されたか、もしくはコンテクストとしてのかたりを踏まえずに、「本質」をかたるメカニズムが単純化されるきらいがある。「一回きりの」遺伝による枝分かれや人類の移動では説明しきれない重層性を考慮しなければならない。有史以来の交流が検討に付されていないかぎり、テクストに書かれていない起源をあれこれと考えることは無謀というほかはない。

 また、社会のはたらきによる産出物が、共同体の本質と一致するように見える場合がある。産出物と本質の過度な混同――なにか「聖なるもの」が作用して社会のものごとを動かす、というかたり口は、近代のある時期まで支配的な言説であった。こうしたスタイルは、スポットライトが当たった「聖なるもの」を解体して考えなければ、共同体の本質について錯覚をもたらすだろう。

 それでは本質とはなにか。本質は基本的に集団労働の産出物、たとえば米やワイン、糸や香料、金属などの純化技術のプロセスから類推され、真理や心、神などといった「個物」として覚知される。雑多なことばや身体、信仰の集合体である社会から見いだされるこれらの個物は、集団労働およびその産出物と密接に結びつき、ことばとして紡ぎだされる。

 かくして「聖なるもの」の軌跡として「かたる」ことが、共同体の文化として生じる。しかしながら、実は説話伝承は、語られるところの「聖なるもの」の営為ではなく、さまざまな集団労働――農耕や染織、鍛冶、商業、戦争、狩猟、官僚制、売春etc...を機能として内在させ、統合する共同体を体現したものなのである。聖なるものの営為は、説話伝承を「再生(revival)」する媒体として、集団労働を模倣する。その結晶が、「うた」「物語」なのである。

 従来「心」「個性」などといった分化が、「うた」「物語」の契機とされている。しかしそれは絶対的な淵源ではない。集団労働の繰り返し行われる模倣にあらわれるほんのわずかな差異が、能動的、受動的な「作為」と認められると、そこに「心の動き」とか、「作者の個性」を見出されることとなる。ひとつの感覚、もしくは間隔の受け取り方として均すものである(いわば「フィードバック」)。聖なるものとそのアニミズムは、社会とネットワークをことばを介して一つの生の時間的、空間的コンテクストに再編することで生ずる。その変形は、あまりにも自然で気づかれることがない。

 伝達、伝承されるという考えからも明らかなように、「ものごとがあり続ける」というイメージが、本質にかんする思惟、うた、物語の立ち上がりに決定的に影響を及ぼしている。その上で本質の追求が被る変容は、さまざまな物語の類型を生み出してきた。

 

研究目標……テクスト、空想から「劇」へ。作者による作為から、非人称的なネットワークとしての社会の顕現。

 

古代以前……オリエント・ヘレニズム・ローマのグローバル

 一ヴァリアントとしてのギリシア文化

 解体する「グノーシス」としてのキリスト教伝承、仏教文化

 近代国家や、宗教性、民族性に引かれた境界線

 説明体系としての4元素説(五輪)、陰陽五行思想、十干十二支

 

カロリング・ルネサンスと古典教養の形成

 唐代、イスラーム、奈良平安文化(泉の信仰、山の信仰、星の信仰、散逸した古典の再解釈)

 オットー朝、十字軍と宋朝(恋愛、宗教説話、呪術の一般化)

 12世紀ルネサンス源平合戦(驚異、地獄、恐怖の誕生)

 

俗語というフィクション

 チンギス・ハン、ダンテ、ペスト……憂鬱、怒りと国家論

 戦争と文学……宗教の失墜と科学の興隆を前に

 表層に躍り出る「商業」……経済思想と深層的な商慣習の忘却

  異界・禁忌・差別の固定観念化、「商業は卑しいもの」という起源譚

 反動としての精神的統治論……心性で統合される民族国家

 

古典教養とその解釈……歴史的「事実」と技術、

 聖性の発露として語られる消費行動……プレ社会経済史であり、ポスト社会経済史

 生の終着としての道具と道具への執着としての生

 エコロジーという再生されたヒエラルキー

 

信仰される環境……洞窟、鉱泉、山、森、河、滝、農地、湿原

精製されるモノ……穀物、草木、金石(鉛・水銀・硫黄)、繊維、酒薬そして肉体、魂

 産出された生成物が、信仰の「見返り」と捉えられたとき、抽象的な「利益」を約束する(契約する)祭祀体系が生み出される。招財や幸運といった現世の抽象的な利益、または楽園、浄土などの異界的、来世的な希望は、複雑化し利害共有の難しくなった社会構造を反映している。内乱などの宗教への矛盾、責めさいなみは、異様に細かい異界観によって表現される。(表裏一体となる技術の往来は「聖なるもの」の所為によって隠匿される)

 婉曲される名称。愛称や指小表現によって、主体は巨人や小人、愚かさといった異形的性質をもって解釈される。面白おかしく誇張された芸能祭祀は、しかしながら、身分社会の役割、分業をもまた活写したものであるといえる。あえて聖なるものをゆがめ、汚すことで活性化させる思考との関連もあるかもしれない。

 

呪術……欲望(性愛、恋)、呪詛、雨乞い、治水、善行、魂

女神崇拝や貴種流離譚(認知)、鳥や蛇などの異形性といった「オリエント」的形質

 神格とその類型

 近代の地政学、古典教養の限界……インドとペルシアとの関係性

 科学以前、「舞台装置(小道具)」としての「モノ」……習慣化される「自然」

 

ことばについての考察

 動詞と名詞へのプロセス 

 一人称、二人称、三人称そして受け手

 モノ・コトについて……比較言語学

 隠喩

生成と変容

 「語源」「神話の類型」「心性」の研究は息が詰まるし、行き詰まる。なぜかというと、これらの起源をたどるという行為が、病的な収集癖、衒学、知識人の選民意識(アカデミズム)、オカルトといった近代活字文化の爛れた腐臭にまみれているからであり、その毒に中ってしまうからだ。

 人間社会の営為から切り離され、いずれ「道楽」として忘却されてしまうような塊。それらは自分のたどって来たローカルな歴史には沈黙し、「普遍的な理論」がごとくふるまう。それらを活き活きとした学問へと再生するには何をすべきか?……学際的、もっといえば「学融的」に、貪欲に他領域に雑じり、交わっていかなければならない。

 学問はその時代、地域の雰囲気を活写するものであるが、その後景をきちんと説明しないまま宗教にまで祭り上げられてしまう。そのような流行り廃りで研究するべき時代にはもうない。政治家の進める自国中心主義、孤立主義に(いっちょ前に)声を上げる学者は多いが、彼らはみずからの学問的全体主義、学問的孤立には無頓着である。

 「日々三省す」「汝自身を知れ」といった古人の教えは全くと言っていいほど理解されていない。「鏡」の隠喩は洋の東西を問わず用いられているが、自分の研究が社会の空気感を反映していることに恐懼し、恥じ入る者はいない。かれらは目の前の敵を、その幻影をあざけり、思い上がる――そうでもしないと生きてゆけないほど日々の責務に追われ、立ち停まることはできないほど、いまの学問は(社会的に認められた、れっきとした)閑暇ではなくなってしまっている。そのようなさび付いた鏡から何が学べようか。

 「幻影」と書いたが、学問で取り扱う術語、概念は常に揺り動き、今も刻々と変わりつつある動的なものである。それらが「固定観念」のように思われ、あたかも始終そのままそのように存在していたかのように歴史が編まれるのは、「印刷術」「写真」「書物」中心でモノゴトを考えてしまう我われの悪弊である。インターネット、SNSの普及はそうした幸福な無知に拍車をかけている。書かれ、描かれることの功罪にこだわらずして、何もかも記録すればいいものではない。この警告は、「Fama(噂)」または名声との古代からの終わりなき戦いを想起させる。

 生成し、変容する「物語」を、せわしない校訂作業と完璧なテクスト探しへと変えてしまったルネサンスの古代愛好が呪わしい。彼らは「発明」「技術」「天才」にまるっきり依存し、神話の活性を成り上がり者の趣味の悪い骨董趣味へと貶めてしまった。そしてそのムーブメントを全球的に広めてしまったのである。「学問」の名のもとの精神人文学と科学技術の分裂は悲劇以外の何物でもない。みずからを何者か知らない「かたり」の氾濫は、しかしながら興味深いことに、みずからが決して知りえない知のネットワークの拡がりを示唆している……

 

本を読む幸福な豚たち。

 

行く河のタイムラインは絶えずして、しかも元のタイムラインにあらず。

魂、精神、真理という隠喩:物語ることについて

 魂は実在しない、精神は存在しない、真理は人それぞれだ……という達観した論はまことにありふれている。身の回りのものが、目に見えたり、手近に扱えるような事物でないと安心できない「心性」がある意味浸透してしまっているのかもしれない。

 科学の発達が自然現象をある程度解明し、また経済の発展が自由と民主主義を再生し、人びとを同じ議場に立たせた。しかるにそれらの社会的意義は「分からない」ことを分かち合い、より有用な知を共有するためであるのであって、「分からない」ことを隠蔽し、無関心や冒頭にあげたようなニヒリズムを醸成しながら、大学や議会をだましだまし生き永らえさせることのためではない。世界大戦という危機が学問の基礎にもたらした不確実さと同じような問いを、この世界「感染」の危機に投げかけてもよいだろう。

 

 古代・中世の知的遺産をどのように整理するか。政治的な脱植民地化はなされても、思想の地図には近代に引かれた国境線がいまだに幅を利かせている。どこどこが何を発明したとか、何々はどこそこにしかないとかいう文明史観に抗して、オリエント、エジプト、インド、ギリシア・ローマ、ペルシア、中国それぞれの領域の知が交じり合わないとできない研究がある。

 ユーラシア全土にみられる「真理」の探究のいとなみは、おおくの事物にみられる、「エッセンス」を抽出する生産過程の模倣である。鉱石や香木、あるいは穀物から金属や香料、アルコールなどを発見し、交易し、供犠にささげるサイクルは、精神と物質、宗教と経済といった見かけの区分を作り出しながら、文化を機能させてきた。

 人びとは移動を続けながら、その生業たる「エッセンス」に適した環境をそれぞれ見出し、聖域として運用しつづけている。定住や都市国家という括りはこうした「巡礼」の副産物である。いつしか「エッセンス」自体が社会構造ないし環境に適用され、信仰やヒエラルキーを形作ってきた。その伝達、伝承に役立ってきたのが「ことば」であり、それを記録するための「文字」である。

 

 「物語る」という行為は、「エッセンス」を鋭敏に見出すこと抜きには持続しえない。偶発的に出たことばであっても、意味を持って「しまう」のが物語るという行為なのである。多義性を獲得し、エッセンスが複雑に絡み合うことで生き延びてきた物語はあるが、エッセンスを喪ってしまえばその意味は途絶えてしまう。

 

 学問が不要なものと見なされているのであれば、学問を維持してきた共同体が「エッセンス」抽出において機能不全に陥っていることの証左である。科学や経済が発展することで、「エッセンス」たる事物を苦せずに獲得する安逸をむさぼってきた反動かもしれない。そしてそれは、階層秩序が均一となり、数値化されるものにしか目が向かなくなった社会の如実な反映である。そのような時代に、「エッセンス」は不健全な精神論として先鋭化してしまったのである。

反寓話攷:近代精神の解体(草稿)

 現代社会において、精神と物質、経済と宗教の溝は根深いように見える。しかし実はこれらは表裏一体なものであって、本研究所でもそれに絡めて「有用性」と「消費」に一度論じたことがある。

matsunoya.hatenablog.jp

 精神も物質も一種の「かたる作用」の所産である。そしてその「かたり」は、社会のあり方や歴史の流れのなかで、さまざまな解釈を加えられながら変容していく。それを名称の同一性という観点から眺めたとき、「正しい意味」「派生、転義」という対立が生まれる。

 その対立を引きずって、「寓話」というスタイルが生まれることとなる。たとえば、古代中世を研究する意義そのものが、現代の寓話としてなのである。研究される対象としての古代中世は、寓話としての働きなくしては、もはや見向きもされない。そして、史観たる「現代」の前提として存在する、精神や物質についての考察に根本的な更新がなされぬまま、従来の観方において「寓話」を産み続けるのだ。

 外形としての歴史と社会だけでなく、内容物としてももちろん「寓話」は存在する。たとえば迷信や呪術は、近代科学や経済への信頼が生んだ寓話である。錬金術といえば、近代科学に淘汰された迷信であり、あるいは眉唾な方法で金持ちをだまし金を巻き上げる経済的メカニズムのことを言う。それは「インチキ」「無知誤解」「野蛮」として「真っ当な」科学や経済から見た偏見としかいいようがない。この種の合理化やつじつま合わせを排し、その時代に通用していた社会のあり方として、現代の科学や経済に対し肩を並べうるコード体系として研究される機会は非常に少ない。

 「寓話」のように、意味するものと意味されるところが乖離したスタイルではない叙述の方法を用意しなければならない。それはすなわち、物語が信じられ、社会に通用する仕組みに思いを致すことである。さまざまなコミュニティが、ひとつの物語を信じざるを得なくなった事情(こころ)を、「精神」とか「理性」とか「美」と呼ぶことはたやすい。しかしそこにすべてを帰する=期するような歴史の叙述の仕方は避けなければならないのである。

物語、隠喩、精神

 「賢さ」にはまったく異なる二つの概念が内在する。事物に関する知識の豊富さを単に量る「賢さ」と、その知識がどれだけの事物と関連するかという総体の「賢さ」である。いくら科学の知識が発展したとしても、多方面の学問を別々に知らなければならないならば、それは古代や中世などより「賢くなった」とはいいがたい。

 人文学が「物語」を介して伝達、伝承するものは事物との多義的なつながり、「隠喩」による賢さである。神話や呪術が天象、農耕、醸造、狩猟、鍛冶などを統合し、一時代、一地域の「語り」たりえたのは、この働きによる。ソーシャル・ネットワーク以前の社会的な結束は、物語の共有にあったといっても過言ではない。

 ところが、近世的な学者、近代的な大学の学びは伝達や伝承のための物語を「伝統」へと読み替えた。社会における国家、帝国の生成と、それを裏付ける古典の「精神」の存在は無関係ではない。そしてそれに反抗する個我という「精神」も、脳科学的、遺伝学的、病跡学などからさまざまな解釈が試みられ、もって生まれた天才や障害といった型にはめられて物語られている。

 そこに現代社会の無防備さがある。多義性としての神話的「賢さ(むしろ「聖なる」畏さ)」が、いかに明確で一義的なものを多く占有するか、という博物学的「賢さ」に置き換えられていった結果、細かく分けられているけれども、つながりが不明瞭な知を高等教育で教え込むようになってしまった。多くが「精神」という骨董品のような概念を更新しないまま、前時代のシステムを引き継ぐ形で学ばれている。

 「実学」として役立つ知も、即物的に、たとえば「少子高齢化や介護に役立つAIやロボットの研究」としてはたしかに有用だが、「それらが現在の労働者をクビに追い込んだあとどうするか」という社会的効用の考察までには及びえない。近代の帝国を拡大させてきた「産業革命」的原動力としてはまことに適切な「場当たり」ではあるが、資源の有効活用、環境保全、格差の是正といった道義的締め付けの厳しくなった現代においては時代遅れである。

 これに対し、「非実用的」な古典教養は反面教師として何を学ばせてくれるだろうか。そこには未分化で、社会全体の考察に耐えうる知が投げかけられているはずである――ただしそれを国家や個人の「精神」という語で処理しなければ。何も古典時代の環境問題、たとえば古代ローマの鉛中毒や、フェニキア人のレバノン杉伐採などを取り上げ、現代化して論じるといった手間はいらない。「宗教」や「哲学」といったものを今あるような心理的かつナイーヴなとらえ方だけではなく、実際的な古代中世の金属工業との関連や、労働や恋愛といった社会的行為が詩や歌としていかに読み替えられていったかを主題に学究していくだけで、実り豊かな成果をもたらすだろう。私は地中海からインド洋までつながる海の路と、シルクロードなどの陸の交易路の「物語」の諸相を追究することが、次代の(ポスト肺炎期の)グローバル社会を見据える学知となることを信じている。

(今回の学融商品案)

 役小角空海などと、ウェルギリウスやマーリンなどの魔術的宗教者の比較的研究。かれらは各地にみずからの魔術的能力を付与した遺跡をのこした、と信じられてきた。大文字の「魔術師」「宗教者」の伝説の根底には、「放浪学生」「聖」といった小文字の「魔術師」「芸能者」といった聖俗入り混じった社会構造と運動が息づいている。その関係性(たとえば、「風呂」をめぐるEuergeticな伝承)を考察することで、たとえば京都の祇園界隈といった街の成立を、考えることができるだろう。それを踏まえて、21世紀にいかに活かすかをコンサルティングする。