マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

男子の本買い 

 どう学究につながるかを踏まえたうえで、徒然なるままに買った古書を振り返っていこうと思う。

 

哲学篇

千葉命吉『現象学大意と其の解明』(南光社、昭和3年

 おそらくフッサール現象学に触れた最初期の日本人の著作。著者は大正教育八大主張なる講演会を行った教育家の一人であり、官憲の弾圧や相次ぐ渡米渡独を経験した稀有な人で、カルト的人気を集めている。

 管見の限りネット上には「独創主義」とよばれる彼の教育のみがクローズ・アップされており、この著作にまつわる解説ページは皆無であるといえる。特異なのは、平田神道の名彙で現象学を解説しようと試みられている点であり、巻末には訳語対照表が付いている。独自解釈も含まれている恐れがあるが、20年代現在進行形の現象学に触れた彼の訳語から、そのあとのフッサールの思索をふりかえるような記事を作ってみたい。

 

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1271725

 

https://www.tamagawa.jp/introduction/enkaku/history/detail_5990.html

http://shinyaoffice.seesaa.net/article/430930928.html

https://ameblo.jp/snow-snow-007/entry-11987796785.html

 

伝奇篇

服部邦夫『鬼の風土記』(青弓社
五来重『鬼むかし』(角川選書
松前健『出雲神話』(講談社現代新書

 「伝説リバイバル考」のための情報収集。オオクニヌシにまつわる伝承が後世の「オニ」観へとつながっているのではないか、という仮説の元、いろいろな事例を集めている。古代から中世にかけて神話や説話のメディアとしての役割を果たしてきた「巫覡」の漂泊――それは権威にとって、敵にも味方にもなりうる「境域/限界(Marginal)」の存在だったと予想される。繰り返される音節、「コマ・クマ・クメ・クモ」に着目して、いかなる劇が古代中世に必要とされていたのかを考えていきたいと思う。

 

中村雄二郎魔女ランダ考――演劇的知とはなにか』(岩波現代文庫

 かねてより山口昌男の『道化的世界』(ちくま文庫)、戸井田道三『狂言――落魄した神々の変貌』(平凡社選書)などを読み、「唯劇論」というようなものを構想していたところ、遅ればせながら入手した。面白い。

 ただ、この3冊を通じて、『グレート・マザー(太母)』『トリックスター』などの「かた」から各地の説話を類型的に理解するという手法が引っかかる。これらの物語を生み出すものとは、原始的な心理や心性でかたづくものなのだろうか。風土やこよみといった時間や空間を超越した「人間」という「作為」を想定することによって、なにがしかの真理や信仰を伝えるメディアとしての物語を腐敗させ、人間中心主義を現出してしまったのが近現代の活字書物文化である、と考える立場にとっては、少々不満が残る。

 

風土篇

北見俊夫『川の文化』(講談社学術文庫)、『旅と交通の民俗』(岩崎美術社)
米山俊直『小盆地宇宙と日本文化』

 風土論というのは、一歩間違うと「環境決定論」のようなヤバい思考に陥るリスキーな分野である。環境即心性のような、和辻の『風土』ではとうてい満足はできない。しかしながら、橋や鉄道、空路が整備されてしまい、どこでも同じようなショッピングモールが広がるようになってしまった現代の「風土」に、かつて何が根付き、どのような文化、権威、信仰が生じていたのかを考察することは、近代においてカリカチュア化され、規格化された「人間」歪像から一歩踏み出すうえで欠かせない。

 山から里、そして川から海へ、雄大な、しかし困難な旅路が広がっていたことは、書物未生の「劇」を考察する一助となりうるだろう。また、ヨーロッパや中国などの風土や巡礼路と比較し、そこで語られてきた「変化(へんげ)」、「神話」を人類学や民俗学から取り戻すこともできる。ひとまず、上にあげた書籍は石田英一郎『河童駒引考』(岩波文庫)『桃太郎の母』(講談社学術文庫)や守屋毅『京の芸能――王朝から維新まで』(中公新書)などの風土的な背景を想像するのに好適な副読本といえる。

 

言語篇

山中襄太『語源十二支物語』(大修館書店)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E8%A5%84%E5%A4%AA

 

 語源学というのは難しい。語源即トンデモのような風潮があるし、実際日本語に関しては「縄文語」や「弥生語」を云々して邪馬台国の位置を推理するといったような山師ならぬ「邪馬師」的な扱われ方しかされてないように思う。かといって印欧語や漢字の由来が非の打ちどころがないかというと、これまた19世紀や20世紀の社会の限界を踏まえずに定説と化してしまっている感がある。

 山中襄太という人は興味深い。語源解釈に無差別にぶち込まれる古今東西の言語についての該博かつ玉石混淆な知識の背景には、ウラル=アルタイ語族藤堂明保の単語家族、戦前のスメラ学や東大古族言語、日猶同祖論といった「牽強付会(こじつけ)」、ヨーロッパ植民地帝国時代の「印欧語」研究の域まで完成しきれなかった戦前日本の言語研究への誘惑に満ちている。それは同時に「大日本帝国」の欲望の幻影なのだ。かれの引く「語源」や書籍からそうした思惟を引き出すだけでも、このような一箇のレッキとした研究が生み出せるだろう。

 

学融機関論――「学行」構想

これらの続き。

 

matsunoya.hatenablog.jp

 

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 まえに「学財閥」という、学問的にも経営的にも厳しくなった大学を、地域や企業が銀行とともに再建に取り組み、学生の消費や就職を囲い込むようになるのではないか、という予測を述べた。今回は大学や研究所側も、ゆくゆくは金融システムのように研究を管理し「貸し付ける」ようになり、より学際的な交流が生まれるのではないか、と期待をこめて、学校と銀行のハイブリッド、「学行(がくこう、UniVanque)」と名付ける。

 

●「講座」の管理

 学行では、教師や講師について教えられるのではなく、一人ひとり「講座」をもって、みずからの研究を預けたり、研究を参照したり、借りることができる。

 その際、付加価値、利得として「学利」が掛けられることとなる。学利はお金ではなく、その研究にかんするレビューやレポート、メモなど学行と顧客間の「ブレインストーミング」である。有用な他分野の知識であったり、図書館のレファレンスサービスのような、書籍のセットをすすめる……といったものを考えている。

 

●地域の文化財・サービス運用のための「学融商品」化(ポートフォリオ

 地域の活性化に史跡や伝統的な行事を見直すことは不可欠であるが、戦国や幕末への日本史の好みの偏りや、「小京都」「山車文化」「踊念仏」のように、広がりは知られているもののそれぞれの地域ごとの特色や背景が見えづらいなどといった問題点がある。

 それらを研究……まではいかないが、知識としておさえ、次代につなげるために、文化的な「テーマ」をもとに書籍やフィールドワーク活動などを「学融商品」として簡単にまとめる。地域や企業は、学融商品に参画、支援することで、「学利」を地方創生につなげることができる。

 

●情報の「学付け」

 フェイクニュースやファクトチェックなど、情報の「正しさ」についてはまるで魔女狩りや異端審問のような「弾圧、抑え込み」が働いている。これでは、正しいにしても誤っているにしても質の低い情報しか出回らなくなってしまう(現に検索サイトではもう手遅れである)。時代は「格付け」ではなく、付加価値として学利をつける「学付け」を求めている。学行は情報の番人として、率先的に情報の再生産を行い質の高さを維持する義務をもっている。

 そのために、学行は「学付け機関」、電子出版物やブログ、Wikiなどによる研究の共有、公開、広報につとめる。

 

以上まだまだ「学行」は机上の空論であるが、この「マツノヤ人文学研究所」を学行のモデルにできるよう、「学融」活動を続けていく所存である。

 

伝説リバイバル考:太子/大師信仰と劇、そして「ミトラス」

 聖徳太子秦氏の関係、そして秦の始皇帝ユダヤ教ネストリウス派キリスト教との妖しげなかかわりについては、何冊もの本が著されてきたのでここではあえて論じない。いくら鎮護国家律令国家、守護地頭といった体制が整えられたとはいえ、古代や中世における国家や仏教は現代におけるそれとは根本的に異なるといわねばならない。

 口承的な「語り」によって緩やかにまとまってきた社会や歴史は、研究者がいかに文章を弄しても、書物の「文化」ではけして近似することはできないものがある。ここを閑却して、書物文化と国家権力や信仰をむりやり重ね合わせていった結果、社会や歴史はヒエラルキーと選民主義に満ち満ちた無知へと人を導く。

 「聖徳太子」像はこの「語り」の歪みを受けた最たるものだと思う。「聖徳太子は実在しない」という説は、歴史になにがしかの事実を見出して、それへの知識を根掘り葉掘り調べて満足する「歴史総力戦」的態度においては、現実に存在した「厩戸皇子」の事実とそれ以外の空想を分別する大義名分である。「聖徳太子キリスト説」というのも日本と西欧が肩を並べる文明国だという主張のためなら結構だろう。

 しかしそれは近現代の社会的ヒエラルキーを映した物語であって、歴史研究だとは考えられない。「シルクロード」「海上の道」のような交易路と、そこに生きた人びとの生――信仰、巡礼のさま、権力のありよう――その名状しがたき暴力性を記述してはじめて、歴史を研究したことになる、と私は思う。

 太秦四天王寺はそうした暴力の起点であり、いまもそうでありつづけている。秦河勝聖徳太子の伝説の故地は、いまでも舞楽能楽、そして映画等々娯楽の発生地として名を残してきた。それは同時に、交易の要衝として兵士や労働人足、芸能的信仰者などが集まる政治的に不安定な土地であるといえる(もちろん、地理的に災害も多く、不安定だと社会的変動にも直結するという背景もある。そのような状況下では、現世的享楽のみならず、浄土信仰などの想像が必要とされる)。

 権威と安定をもとめる貴族、寺社仏閣は私的な娯楽を不道徳とし、道徳的かつ公な娯楽へと作り変えることによって、こうした悪所を統治していったと考えられる。「聖徳太子」「弘法大師」などの国家的宗教的救世主像は、そうした上からも下からも要請された、抽象化された「太子」や「大師」にまつわる物語から生まれた虚像であろう。

 秦氏が秦の始皇帝の子孫であるという伝承や、ユダヤ教ネストリウス派キリスト教を信仰していたという説は、この「太子」や「大師」にまつわる伝説群を定着させたことに発すると思われる史記の燕の太子丹と始皇帝舞楽の「蘭陵王」などが「太子」説話群にはいり、杖から木が生えたり井戸を掘りあてるという奇跡譚が「大師」説話にはいる。シルクロードの西では、ヘレニズム期に流行したアレクサンドロス大王やテュアナのアポロニオスの説話がおなじように演じられてきたのだと思う。また賤民とみなされた渡し守「ワタシ」や「タイシ」は、この関係でとらえられるべき)。そして、「ミトラス」という思想と信仰が、この物語へ密接にかかわっているのではないかというのが、長々と書き連ねた本稿の核心である。

 ミトラス信仰はペルシアの光明神が、「契約」という抽象的な事象の守護神という立ち位置で奉じられ、ローマの兵士や下層民による秘儀的な信仰として盛行した。ただし、ここで扱うミトラス信仰は、こうしたペルシアやローマに残存した遺構から類推された、近現代のオリエント学で「ミトラ教」とされるものからは外れるように思う。

 交易路において漠然と共有されてきた、経済的な商慣習や消費に必要な「契約」とその「対価」という知識が、宗教的な行と救済に適用される現象、これが私の考えるミトラスの思想と信仰である。そこには「太陽神」という明るさ=明確さの隠喩がはたらいている。そしてミトラスへの渇望は、弥勒信仰という明らかな影響のみならず、そのヒエラルキー――大烏花嫁兵士獅子ペルシア人太陽の使者父――を日本の芸能の「かた」へと持ち込んだ正倉院舞楽面が、この位階を反映しているという説がある。伊藤義教か井本英一だったか、また日本の舞楽や猿楽の創始者とされた秦河勝が、『明宿集』なので初瀬の川から童児として流れてきた伝承をもつことも、オリエントとのつながりを考えさせる)

 ローマのミトラス教でこれらの信仰を担うのが男性のみだったというのは、現代的な密儀宗教観というより、演じるうえの禁欲、女形などの需要だったのではないか。マツロワヌ異人や鬼にさらわれる娘、鳥人や猛獣への畏怖と討伐、神威の使者に導かれる兵士、あらゆるものに成りきり、「契約」と「対価」をまねぶことが、軍事的宗教的政治的な規律のために必要とされたと、私は見ている。

 聖徳太子の物語、そして展開にも「契約」と「対価」が、仏教的色彩ではあるが表現されている。四天王寺の創建、片岡山の飢人など喧伝された説話は、太子がさかんに仏と結縁し、現世的利益を得たことを強調している。そればかりか、聖徳太子は「未来記」を著すことによって、不安定な中世を生きる人々にも生の救済という契約と対価をもたらそうとした。もちろんそれは学僧たちの仮託だけれども、ミトラス的発想が長い時間を経て持続してきたことを証するに余りある。

 「大師」とミトラスの関係については、高野真言系、浄土思想系などによっておおくのヴァリアントがありそうなので(不勉強なので)、ここでは詳述しない。ただ、京都そのほかの六斎念仏や大念仏狂言は、もっともラディカルにミトラスを表現している芸能だとおもう。農耕的な田楽と、それを真似た猿楽、そして能やかぶきへの発展は、舞楽経由での影響がありそうだ(念仏やかぶきについては死者の一時的再生という別の文脈から論じる必要がある)

 ここまで考えを巡らせたところで、名状されがたい「暴力」を公に認めさせるためには、「契約」と「対価」を表明し、それが受け入れられなければならない……という法的なシステム、思考が働いていることがわかってきた。古代や中世において物語るということは、たんなるシュールな空想を開陳するのではなく、こうした思想的支柱において物語る、ということだったのではないか(パレーシア、ともいえるかもしれない)

伝説リバイバル考:オオクニヌシと抽象化される暴力

 

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 これの続き。

 

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 そしてこれとも多少関連してくる。

 

邪馬台国の位置がどうとかいう議論もそうだが、「出雲神話」という観念にとらわれては、神話――芸能と信仰の渾然一体としたもの――を一読者の視点からどうこう論評することにしかならない。

 国譲りとか出雲王朝とかを古墳時代奈良時代の実在の出来事に限って追究するスタイルも結構である。しかしながら、神話を伝えてきたメディアを考察すること抜きには、国家的な暴力と抑圧されてきた民衆、のような感傷的でありきたりな――いわば小市民的神話の――世界を脱することはない。

 おそらく、これらの神話伝承のアルカイックな形ははじめに「うわさ」の形で共有され、人びとを「動かす」ための――心理的にも、戦略的にも――圧力が加えられていった。その際に必要なのが、そこに表現される暴力の生々しさを捨象し、「理想像」としての聴衆の分身を紛れ込ませることである。兵藤裕己の本だったように思うが、近代の浪曲で表現される親分子分の関係、そして演ずる浪曲師たちの師匠弟子の関係、そして明治国家の天皇を頂とする家の関係が、アナロジー入れ子構造のように展開していた、という話を見たことがある。

 これと同じ考えを適用すれば、ヤクザ映画でクローズ・アップされた仁義などは、映画会社のプロデューサーと演者との、そして昭和のサラリーマンたちの会社への個人的な忠誠心を切り取ったものといえる。こういうエピステーメーのようなものが、古事記日本書紀として文字化される以前の「語り」に秘められているのではないか、というのが私の抱いている意見である。

 古代の農民とも兵士とも流浪者ともつかない「雲のような」、あるいは土着化しても反抗をつづける「蜘蛛のような」人びとの信仰世界を考える。おそらく義兄弟的関係を各地の人間と結び、相利共生を営まないとみずからが暴力にさらされるだろう。それでも大国主が求婚によって兄弟たちに妬まれ、謀殺されるところに、物資の運搬に従事した人夫の明日をも知れぬ生――富を得るにしても、死にいたるにしても――が投影されている。それは語り手とて同じだったと思う。少彦名とともに行った事業、医薬や国造り等々の成功にもかかわらず、天孫降臨により国譲りを行う一連の語りは、語り手や聴衆が直面している生業の意味であり意義をしめす起源譚なのである。

 そして人びとには起源譚を反芻することが求められた。各地のオオクニヌシスクナヒコナを祀る神社、そして出雲という地域に神聖さが与えられ、人びとは巡礼し生業を自覚するだろう。大黒様に商売繁盛を願うのもその一環といえる。さらに、オオクニヌシの受難やスクナヒコナとの国造りを再生する劇が演じられただろう。風土記などの多くの地名由来譚に二柱の神が現れるのは偶然ではない。ダイダラボッチなどとの関わりはよりオオクニヌシの偉大さや異能を「巨人」として強く具現させたものと見ている。

 ゆかりの深い京都の五条天神社の祭神がこの二柱であるように、弁慶と義経にまつわる芸能は、古代のオオクニヌシスクナヒコナ説話を部分的に受け継ぎ再生しているように感じられる。中世の動乱の中で兵士の理想像が投影された結果、オオクニヌシスクナヒコナは弁慶と義経の説話へと更新されたのだ。義経北行アイヌの英雄神オキクルミとサマユンクルを義経と弁慶に同一視する動向も、祖型としてのオオクニヌシスクナヒコナが強く意識されていたことに起因すると考える。

 怪力や巨人としての暴力と知恵にたけた策略のコントラストある組み合わせは、世界各地の説話に見受けられるので、人びとの統治システムとしてのこうした物語の再生行為がかなり広い範囲で求められ、交易路や信仰巡礼によって拡散が行われていたことを予期させる。

伝説リバイバル考:お菊・皿屋敷伝説

中世・近世の伝説は古代神話のリバイバルであるという仮説のもと、お菊さんで知られる皿屋敷伝説と、菊理媛≒白山明神の関係を夢想してみる。とんでもな推論かもしれないが。

 

中世の皿屋敷伝説の初見には、皿もお菊の名前も出てこず、鮑の盃、それも五枚のみだったと聞く。この伝承は中世の時点ではかなり実話に近かったのではないかと思う。しかし口承にて伝播することによって、現在のわれわれが重視するようなリアリティではなく、その言語的な呪術性、シンボリズムが強調されることとなった。音が似た句を連続させることで、伝達の便をはかることもそうだが、おそらく似た名の神仏との結びつきを借り連想させることで、後代に伝承されやすくなるためであったのではないか。

 

 「菊(きく、くく)」という下女が、水に潜(くぐ)る、または首を縊(くく)る。そうして夜な夜な九(く)まで皿を数え、屋敷のものを苦しめる。最後は僧による十の声を聞く(きく)ことで怪異が止む。この中世までの説話に付け加えられた「きく、くく」の連想は、イザナギイザナミを黄泉で仲立ちした括りの神の性質をもつ菊理媛を思い起こさせる。なぜ黄泉で和合をとりもったかは、重陽節句(九九、くく)、菊慈童伝説系統のような長寿、医薬の象徴としての菊花も重ね合わせられているのだと思う。お菊を祭る十二所神社は医薬神としての大国主よもぎの伝説にかかわっている。

 

この皿屋敷の話に仮託された地名、「番町、播州」と白山信仰の関係は、番町と日枝神社(から連想しうる比叡山と白山妙理権現)があるかもしれないし、北陸と播州の交流から証することができるかもしれない。ただ、神仏習合時代のプロパガンダ的説話が散逸してしまった現代においては、再構するのはきわめて難しい。

 

 このような仮説を考える。古代より播州と北陸の交易路に脈々と伝わってきた医薬神、和合神信仰が、巫女や修験者(いわば聖職者と芸能者のはざまの人びと)によって語り伝え、演じられてきた。彼らが中世動乱期にあたって、家の栄枯盛衰を伝える「皿屋敷」原話(元々はかなり不道徳だったかもしれない)に目をつけ、菊、潜る、縊る、九などを盛り込んだ説話を作り上げた。それが江戸期に文書化されるにあたり、具体的に番町や播州の、誰々の武家の話というふうな尾ひれをつけて「リバイバル」を遂げた、と。古人たちも都市伝説と同じような具象化によって、怪談なり笑話を作り上げていったのではなかろうか。

 

姫路城の刑部姫の話も、これに似たような聖職的芸能者がかかわっていると思う。ほかにもリバイバルの典型として天神と道真、弁慶・義経大国主・少彦名についても別稿で扱いたい。

学融資本論――客観性と観客性

 これの続き。

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景気次第ではあるものの、この数年のうちに経営破綻、機能不全に陥る大学や大学院はおそらく国公立、私立を問わず増えるのではないか、と考えている。学生は学生で高校卒業世代が少なくなるだろうし、学費の負担も重くなる。教授も教授で、事務的な仕事が増え、言論執筆活動とのバランスをとるのがいっそう難しくなると思う。

それでも、若い労働力や購買力の確保や就職予備校としての性質から、地域社会や企業は大学という集金マシーンを見放すことはないだろう。大学自治という建前はあるが、採算の取れなくなった大学は、地方公共団体や民間企業の支援や介入を受けることとなる。これまた先の見えない出版産業や銀行業、とくに地銀を抱き込んで、地域や企業系列に深く根差した、あらたな学歴学閥社会ともいうべき「人財閥」を形成するのではないか、と見ている。

おそらく、「京都学」の如き地域の文化や伝統を学ぶ授業が増えることによって地元産業やローカル中小企業志向は強まると思うし、就職予備校や学習塾などがあらかじめ研究のためのリテラシーや情報収集能力を習得させるカリキュラムを提供することによって、高校から大学への学修環境の変化をスムーズに移行させるような利点も生まれるだろう。基礎教育や就職活動にかかる大学の負担は間違いなく減る。

文系・理系問わず家計的な余裕の元、均質で高度な教育を受け、グループ企業や地方公務員として就職し、必要があればリカレント教育によってキャリアを充実させることも可能というサイクルが生み出される……といえば聞こえはいい。しかしながら「人財閥」は、結局安定した就職や大学運営ばかりにメリットがあって、研究に貢献する面は少ない。学究とはすすんで専門外の知識を取り入れる外部への運動であって、学会や学統という内部の安定をもとめる教育とは性質のガラリと異なった代物である。

 

そうした苦境では、学究の展開、とくに啓発活動は後回しにされていくだろう。とくに人文学研究という「実用的」とは通常みなされていない分野では、現在でもソーシャル・ネットワーククラスタなどで爆発的に流行るが、一般的な認識は更新されないまま、またあらたな研究動向とのズレは開いたままである。

というのも、一般的な研究における「わかりやすさ」や「客観性」というのは、仲間内での慣例として通用するところのそれであって、決して面白い見せ方や特徴あるスタイルを追求することではないのである。それは実のところ内部の教育システムにおける主観にすぎない。観客のいる客観で研究ができたなら、どれほどよいことか。

異なる学域の人びとと、おのれの学究を見せ合い、そこから創作活動をはじめ、メディアで発信する、という循環を作れるならば、喜んで身をささげたい。知的なインフラストラクチャーとして、論文や研究成果の一風変わった共有は、いみじくも文化立国を掲げるならば、五輪万博前後の一大責務となるだろう。

 

とりあえず今の時点では、書店に「教科書から読み解く」や「日本人の常識」などという惹句が躍るかぎり、みずからの専門領域に基本的な知的インフラが成っていないことを学究者は自戒せねばならない。そして、すくなくとも歴史研究においては「歴史小説」「歴史教育」と「史学研究」がごたまぜになっている現実は直視せずにはいられないだろう。(「史学研究」といえど日本史関連書籍しか売る気の無いことも、嘆かわしいことである。)

 

 

歴史総力戦主義について

表題は全くの造語で、歴史にたいするある種の硬直的で閉鎖的な態度、日本史は日本史として、東洋史東洋史として、西洋史西洋史として固定観念をもって歴史に取り組むことをさす。ありったけの文献や考古学史料、そして学生や研究者を総動員して、学問としての歴史の株を守ることに終始する。

高等教育においてひとつの教科のエキスパートとなって、次世代の研究者の教育をしなければならないという使命があることはしかたがないことである。郷土史家や歴史小説家としてある国、ある地域の偉人を顕彰するということも歴史の共同体における役割の一つである。

しかし、歴史はある観念「ありき」で編纂されるべきではなくて、その時々において、人びとがどのような文化を積み重ねてきたかという探究に主眼がおかれるべきである。東西交渉史や口承文化史は――すでにこのことばを用いることである種の過剰を負うことになるのであるが――「歴史総力戦主義」から生み出される研究成果では分断され、不可視に近いものである。

「歴史総力戦」的な態度は、事物の起源を主な関心とすることで、国民の教育、統合を企図する近代の国民国家帝国主義社会の副産物である。ジャーナリズム的興味による歴史叙述も(公共圏などがかかわってくるだろうが)そうした意識に寄与してきた。それが現代の人文学への無関心によってプロフェッショナルの「歴史学」やアマチュアの「歴史小説」「郷土史」コミュニティへと小さくまとまり、相互交流もままならなくなっている。

もちろん、乱暴な比較やオカルトやエスノセントリズムによる統合はもってのほかである。ただし、「古代人中世人の心性」や「お国柄」、「野蛮、無知、進歩」ということばで片づけるような歴史はまっぴら御免だ。苟も万人が協調するグローバル社会というスローガンを政治的に推進するのであれば、それ相応の人文学を用意しなければならない。日本ローカルに限定すると、地方創生を推進するならば、である。歴史総力戦の成果は、差別などをつうじていち共同体に窮屈な孤立主義を負わせる。行き過ぎた一極集中と周縁の疲弊が再来しているが、巨視的な歴史を軽視し、矮小化せしめた二度の大戦に学ばなかったのだろうか?

無知を恐れずに言えば、たとえば邪馬台国卑弥呼などは六朝時代の人びとが共有してきた異国認識のぼんやりとした総体にすぎないと思うし、忍者は「武士道」につながっていくような儒教知識人の道徳でとらえきれなかった、農民であり傭兵であり宗教者でも技術者でもあった武士の実像であると私は考えている。これらの知的関心を、前者は「ゲルマーニア」、後者は西洋騎士、中世都市の傭兵などと比較研究したら面白いと思う。こうした視点一つひとつをテーマとして、ユーラシア、アフリカに拡げて、また自然科学や社会科学を包摂して研究していきたい。

これからの歴史学は、いままで明確なイメージを提供してきた文献や考古学的史料から読み取りうる、西洋史学的なことばでは「境域」や「限界リテラシー」として表現されるような、輪郭線を明確に引けないような事象を対象にしなければならなくなるだろう。そしてそれは、境界線を引けない現代を生きる人々に資する知識を提供するだろうと、私は信ずる。