マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

「蝦夷」、境域の民たち:西国との交易・文化的関係をかんがえる

 蝦夷の歴史は「境域」の歴史と捉えるべきと思う。

 

 明治以降の古代東国史研究は、蝦夷対和人という民族対立、支配や隷属という階級対立の歴史として考えられてきた。それは江戸時代から続くアイヌとの交易だったり、北海道の入植という内政問題とも密接にかかわってきたし、コロポックル論争などから端を発する先住民問題にも入り組んでいる。そのほかにも縄文人弥生人というよく知られた類型や、東北以西のアイヌ語地名説、マタギなどの狩猟文化など、学界の定説、俗説を問わず近代の蝦夷観が波及した例は枚挙に暇がない。

 そして多くの説が、アイヌ蝦夷縄文人、和人=渡来人=弥生人のような図式を当てはめ、北海道や東北の文明化や近代化という近代日本国家(と一部のキリスト教宣教師)の使命をそこに重ね合わせてしまっている。ここにはヨーロッパにおいてケルトエトルリア、ゲルマンの文化が被った国粋主義プロパガンダに似たものがある。ことに日本語とアイヌ語の関係や先住民などのアイデンティティにかんしては、今なおナイーヴな論点を孕んでいるために、おそらくコンセンサスを得ることは難しいだろう。儒教的な蛮人観や、ナショナリズムが推し進めた「肉食禁止」などの均質的な日本文化観が、いまだに根深い溝を残していると言わざるを得ない。

 

 しかし、こうした古代史の伝承にかんしては、坂上田村麻呂阿弖流為、あるいは中世の悪路王や長髄彦、安日彦、高丸などの伝説が、寺社縁起や猿楽や口碑などを通じていかに人口に膾炙していたかを勘案しないと、この問題の射程を見誤ることとなる。さらに近隣の交易関係――すでに開かれていたペルシアや唐とのシルクロードや、インドや長江流域、朝鮮との海路などのマクロの視点なしに、原始的狩猟民対農耕民のローカルな争いのように捉えてはならないと思う。

 交易路上に生じた紛争が、いかに解決され、説話などの語り物として伝えられていったのかという、近年のスペイン・レコンキスタ研究のような視点が必要となるだろう。「征服」の語りを欲していたのは、京都や南都の官僚や聖職者の思惑ばかりでない。その時々に立場を変えざるを得なかった境域上の民にこそ、生きる根拠となる起源譚が求められていた。一方的に虐げられていたものへの判官びいきというペシミズムではなくして、利害の合致を追求する探り合いとして、これらの説話を考えてみたい。

 

 神武天皇崇神天皇といった征服者の近辺には、久米氏・安倍氏物部氏和邇氏・大伴氏・中臣氏などの氏族が、長髄彦や土蜘蛛という「先住民」とは峻別された形で現れる。生駒や東大阪、南大阪や橿原一帯にゆかりの古寺社が多数存在するところから推し量るに、古代から活発な定住・交易がおこなわれていたのだろう。しかしながら、後世の史書なりに記録されたように、のちの外国人街のように明確に街区化されそれが「渡来人対先住民」のように明確にイデオロギーとなっていたかは実のところわからない。

 あるとすれば、その時々の紛争に応じて、有力者のもとに兵力や技術者たちが結集して戦闘が行われていたのだと思う。話される言語も、近代のように日本語やアイヌ語という明確な区別を持たないクレオールが話されていて、信仰ものちの道教シャーマニズム神道に分化する前の未分化なものだったのであろう。しかしそれは単なる迷信でなく、磐座や石神、星や大木などを、測地や治水、交通やこよみに利用するものだったと考えられる。熊(久米氏に関係か)や狐(安倍氏に顕著)は、中国の神話群とも相通ずる神獣である。熊皮を身に着けた方相氏や北斗七星(熊とサマユンクルを北斗七星に結びつけるアイヌの説話が存在するという。また方相氏の四つの眼は、北斗の枡の四つ星ではないか)、伯夷と叔斉などの山岳信仰などを同源とする考えがあると思う。また、物部の遺臣であった捕鳥部萬は彼の頭骨を咥えて離さなかった白犬とともに葬られたが、白犬は狼を思わせる。

 

 難波の四天王寺周辺にもその痕跡は残っている。安倍氏の拠点とされる阿倍野物部氏の本拠であった荒陵は、住之江の港に隣接していた。荒陵は茶臼山の古墳であり、一帯は中世、また近代にいたるまで、病人、貧者、放浪者といったアウトサイダーたちの宿所であったといわれる。異人を受け入れ、ケガレを払う場であり、舞楽秦河勝を始祖とする四天王寺舞楽)や歌謡(住吉の神は歌道の神とされる)、そして航海や渡河に必須である天文などの知識が行き交ったのであろう。この要衝を本拠とし、さまざまな祭祀で境界を清める役割をも果たしていた武士集団、源融を祖とする渡辺氏と蝦夷の一派とされた渡党の関係が気になるところである。源融は塩釜の浦を居宅に再現する風流で知られたが、神仙に傾倒した道者の側面もあったという。

 

 阿倍仲麻呂安倍晴明を出した安倍氏大彦命を祖とする。いっぽう東北の安倍氏、安藤氏は中世、長髄彦や安日彦の子孫と称した。しかしながら両者には異形の鬼神のイメージが共通している。吉備大臣入唐絵巻は、鬼と化した阿倍仲麻呂吉備真備を助ける物語で著名であるが、それは阿倍野での安倍晴明の誕生の前日譚であった。この二つの安倍の存在にくわえ、各地に残る晴明(清明)塚や阿部山の伝承には、陰陽師とよばれる人びとのなかに、土木治水の人足や巫覡の徒として動員される豪族としての安倍氏と、中央官僚として、総括し測量や天文を指導する立場にあった安倍氏の二重構造があったことを思わせる。

 その他の氏族にもこれに類する観念を当てはめたい(のちの賜姓皇族と武士たちの「党」の関係はこれに類すると思う。中央から政治的に排斥されても、地方の豪族との関係により土着化していったのだろう)。安倍氏はape(火)から来ると田中勝也氏はみずからの蝦夷論の中でのべた。さらに記紀に通底する道教的思想に沿えば、大伴はtom(輝く=金?家持は陸奥の金鉱発見を祝う歌を出しているし、佐伯とサヒ=鉄、鋤の関係を推したい)和気はwakka(水、水気の象徴である猪と縁が深い)、和邇はni(木、木地師ゆかりの小野氏や柿本氏を輩出)そして中臣は土気をもって五行を循環させる役割を担ったとこじつけることができる。

 

 と、ここまで書いて、荒唐無稽ともいうべき説を長々と書き連ねてしまった自らの不勉強を恥じる次第である。しかしながら、平安京や南都の官人の権謀ありきで語られてきた蝦夷との交渉史を、東国の古代だけではなく、たとえば吉備や播磨や難波などといった交易拠点を見据えて広域的に考えると、中世の東アジア交易を担った海洋民アイヌとのミッシング・リンクをおのずと埋めることができるように思う。

説話研究の意義

 説話の研究は、じつに多面的な意義をもっている。

 

 まず一つは、言語の構造の研究である。これまでの言語研究では自立して成立しうるかのような、文法的な側面がクローズ・アップされてきたが、言語は人と人とのあいだにはたらきかけ、あるいは生と死のあいだを仲立ちするものであるべきであり、その内容物たる物語のおよぼす影響は社会において計り知れないものである。

 たとえば時制の標示やものごとの位置関係、数などの順序といった文法的な表現は、言語学者の考えている以上にひとを拘束する。こうした構造への考察を純粋に突き詰めていった結果が「法学」なり「数学」といった解釈の手立てへと結実している。善悪などそこでもなお解決できない問題は、神話や教義といった形で集約が行われ、信仰という生と死のあいだの日々の繰り返しにおいて適宜参照されることとなる。

 近代は「精神」というかたちで教育などにより再現可能な「型」を作り上げ、その模倣の巧拙が社会的なヒエラルキーになるような社会を無意識に(つまり、これまでの古代や中世の教養、大衆や地域の民俗を継承、集約して)作り上げた。しかしながら、「型」を重視するあまり、もととなる物語や説話の言語的な問題を捨象し、「型」の蒐集と一般化に拘泥してしまう傾向にあった。たとえばすすんだ科学精神の対極、「迷信」という型に合わせて、前時代的な呪術や占術がコレクションされ、いわば偏見と好奇の眼に晒されるのである。対象内や対象間にあるはずの時間の流れや社会的関係は「迷信」と指示されることを契機に遮断され、思考停止されてしまう。

 もちろん、近現代の科学と教養的民俗的な信仰のあいだに「同質性」「均質性」をもとめすぎるのは早計である。それでも、両者は記号や物語をひとまとまりにした言語を介して文化として伝わるものであり、たとえどのような細分化をきわめた研究であっても、言語の構造をぬきにしては至極まとまりを欠いた結論となる。

 

 二つ目に、説話は実際の社会的な行為を「模倣する」ことを促すところに、その眼目がある。言語文化は知として蓄積され、その時々に応じて参照される。かつて信仰がもっていた、場所・時季・社会的地位によって著しく限定された知を「いつでも・どこでも」開放するところに、近代科学の功績はあった。ただし、機械や競争により環境や社会的関係に強い負荷がかかるものであったし、「いつでも・どこでも」の基準に反するふるまいには厳しい制裁・差別がともなった。この「いつでも・どこでも」の判断を下すこととなったのが、これまで伝統に権威をもたらしてきた「王権」にとってかわる、文壇やマスメディアの「公共圏」による説話の大量生産であった。

 これまで庇護を受ける側であった商工業者たちが社会的に台頭してきたことは、旧弊の信仰や王の権威に変質をもたらすこととなった。「民衆」の支持という正統性、「科学」に適合するかという正当性のない論理は容赦なく退けられ、さらに地域をまたぎ、歴史をさかのぼって判断が行われることとなる。勧善懲悪の「かたり」の流行は、アカデミックであるなしを問わずヒーローとしての王と臣民の関係、アンチヒーローとしてのアウトローの家父長的な子弟関係と軌を一にして爆発的に広まることとなった。教養や民俗を巻き込んだ、この価値体系の逆流・混線は歴史研究において宿痾となっている。

 

 さいごに、近現代的な価値や技術の広まりによって失われつつある断片的な知識を、次代に伝承していくことに、現代の使命がある。産業革命以前の、「農耕」や「鍛冶」の社会的関係は、いわば近代的な「農業」「工業」「商業」によって攪乱されている、と言わざるを得ない。王権の正統性や都市民の帰農という政治的プロパガンダや歴史的レトリックに彩られた「牧歌」や「農耕詩」を、純粋な牧人や農民の知恵として受け取ることはできない。しかし、これらが文語ラテン語の教養とされることで、農業本位の経済や歴史が作り出され、そのカウンター・カルチャーとして工業・商業本位の資本主義経済と科学的歴史観が積み重ねられてきた。この解釈にならい、または儒教や仏教のバイアスを正当に評価せぬまま、万葉集古事記などが読み解かれ、現在との連関において歴史化されている。

 これらの文字化された言語の「歴史」と、おそらく口承でつたえられただろう説話の「歴史」のあいだには、大きな隔たりを抱えたまま散逸の危機が存在する。後者は伝承者の減少による時間的な限界と、文字化へのコンプレックスによる歪曲により「偽史」として不当な扱いを受け、前者は細分化されることでその存在意義を見失っている。

 ここで、古人がただ漫然と天変地異を惧れ天象を崇拝し、古墳のありかを王や英雄の事績とともに伝えたのか、あるいは死後の世界を船による航海や死者への裁き、刑罰としての責め苛みにたとえたのかを今一度再考する必要がある。これらは死後への不安や安心ばかりではなく、後生に守り伝えるべき事柄を死に借りて表現したものではないか。

 都や墓地の選定に伴う測量や天文観察の技術、そして信仰をあらわす装飾美術や占術、呪術は、社会的なヒエラルキー外の、畏怖すべき鉱山師や鍛冶師、定住にも不可欠な土木治水の知識と不可分である。ゆえにタブー視され、差別され、近現代には農耕や狩猟に付随した迷信として軽視されてきた。さらに、これらは海を隔てた「同質性(グローバル性)」と、その地域・時代ごとのローカライズを勘案しながら研究を進めなければならない。

 

 神話や説話のこうした裏付けをとらなければ、人文学が他に資する学問たることは永劫なく、たとえば一都市だけが豊かになるような観光政策、一産業だけが富み栄えて将来への投資がおこなわれない社会構造、出身集団の利得優先で配分が行われる政治などを根本的に転換できるような総合的な学知をもった人間を得ることなどもってのほかであろう。

研究、あるいは広げすぎた大風呂敷

 雑多な分野に手を広げすぎたせいで、研究の全体像がぼやけてしまっている。

 

 はじめは井本英一が記録したオリエントやヨーロッパのさまざまな伝承と、吉野裕子がまとめた陰陽五行説による農耕儀礼の比較検討が目的であった。犬をいけにえにしたり、死者の使いとして忌み畏れる風習はよく似たものがあるが、その土地を支配する道教陰陽道であったり、ゾロアスター教にあわせて、また言語によるこじつけもあり解釈が異なっている。これらにおそらく共通したのは、天文知識による季節と気候の把握が、「呪術」として幾何学化、法則化されることで、一種の「精神」と呼ばれる解釈の体系のことなりを生み出してきた、という仮説をたてた。災害や兵乱への恐れが、地の境界となり、やがて知の境界を作り出してきたのだ。

 

 そのうちに、佐藤任のインドの錬金術や、若尾五雄の鉱山や鍛冶伝承との出会いがあった。柳田国男折口信夫の「農耕社会」よりの民俗学に異を唱えた若尾の論考は、畿内や中国、九州をテリトリーとした鍛冶集団や土木集団の、神仏の信仰が根付いた知の拡がりを示唆している。銅の精錬や水銀アマルガム鍍金による奈良の大仏造営が、彼らの政治的な影響力を強めたことは言うまでもない。

 しかしそれは、度重なる政変と道鏡の専横、桓武天皇平安京遷都を境に、いわばバブルのような危機をもたらすことになった。空海による密教の伝来、水銀を用いた霊薬の知識(を模倣する祭祀儀礼)が、こうした集団に歓迎されたのは間違いない。長い年月をかけて、太子信仰、大師信仰として、あるいは地主神が神仏にその土地をゆずる中世神話として醸成されていくこととなる。神自体が出家してしまった八幡神は、武士の崇敬を集めることとなった。

 

 古よりご神体とされた山々や墳墓に沿って神仏が鎮座し、そこに巡礼路が開けてくる。農耕民ばかりでなく、商工業者も通過儀礼として、自集団の存在を神仏と関連付ける必要があった。西欧の聖人崇敬や修道会が、農耕歳時ばかりでなくケルトギリシア・ローマ、オリエントから金工技術を守り伝えていたように、神仏習合もまた採鉱や鍛冶と不可分であった。金工を事としたベネディクト修道士テオフィルスや鍛冶師が罪人を責めさいなむ地獄を語り継いだベネディクト修道士マルクス、シトー修道士ヘンリクスとよく似た世界がそこに展開している。

 「かたり」という芸能へと変化しつつあった高野聖陰陽師神職たちの信仰世界は、地獄や不具者の苦しみ、戦や恋愛の欲望をうたう物語、そして歌と切り離せない。「うた」を解釈し語り継ぐことは、季節の変化やそれにともなう幽玄な景観をかたりとどめることでもあった。死や禍災といった異界と隣り合わせの、「境界」に位置するこれらのことばは、土木や冶金を事とし、恐れられたノマドの民とともに記憶される。その異形性は、西行柿本人麻呂和泉式部にしばし仮託された。

 

 そのバックに位置する神話の知、および道教や西洋神秘主義にみられる昇天、昇仙などの類型は、やはり天文学や土地の造成、測量とリンクしている。漁民の用いる「山アテ」や、風水で唱えられる陵墓選定のための「堪輿」、そして十二星座や二十八宿、歳陰の動きをもとにした十二支などの伝承は、科学的な測定のなされた暦法にもはや疑いをもたない近現代においては占術や呪術という余興に捉えられているが、以前は天文観察のための切実な技術であった。

 星を偉大な祖霊になぞらえ、またその真下に墳墓として先祖を埋葬する(と信じる)ことは、王権の成立基盤であるといっても過言ではない(またへそ石や陰陽石といった境界を通じ、大地の胎内に宿ることは、穀霊や山霊として再生し子孫に恵みをもたらすことに必要であった)。源平藤橘などの出自を重んずる氏神氏寺への巡礼や、あるいは西欧のヒラムや親方ジャックなどを奉ずる密儀は、また物部(もののふ)や修験道者に近い存在であった武士や流浪の職人たちに結束や安定をもたらす儀礼であった。

 

 産業革命による機械化がすすみ、身分秩序からの解放がうたわれた近代以降は、これらの崇拝は消費社会によって失われた精神の復興、国民や民族への再編過程として解釈が行われた。多くがあらたに文字化されより幅広い人間に共有されたという点では、目覚ましい成果だったといえるかもしれない。しかし極度に細分化された学問と、科学と精神の深刻な「乖離」は、世界大戦を引き起こし、今なお人文学や宗教のサブカルチャーへの落魄という新たな火種を生んでいる。過度な神秘主義ではない、また現代を批評できない科学万能主義でもない、かつて1000年以上維持されてきた社会の見直しとしての人文学へのアプローチを、研究を通じて行っているつもりである。

 

 そして、たぶんこんな感じの書物が出来上がる予定である。

 

■「唯劇論」
 ○テーマ、生と死のあいだに
 ○他者の修辞学
 ○トリックスターの表象/投影される権力の起源
 ○区切りとしての起源譚/引用しあう説話群
  アレクサンドロス大王と説話群の攪乱
  オリエント・ヘレニズム・インド・シルクロード
 ○公共圏、精神、文学の「かたり」と看過される「境域」
  マクロな歴史とミクロな歴史
■古墳と古代中世技術史
●土木治水にたいする人びとの畏怖
 ○境界と鬼、悪魔
 ○神仙思想・陰陽五行の影響
  牛頭天王と宿曜
  ケルヌンノス
  黄道十二宮・月宿・十二支
  要衝としての播磨
●技術継承の場と巡礼・秘儀
 ○猿楽・狂言と中世神話
 ○天文学と冶金文化……盲目と邪視
 ○聖域と祝祭……日常の淵源としての生の浪費
  源平藤橘と親方ジャック
  詩における欲望の表象と巫覡……興
  歌謡と呪術
  軍記語りと穀霊
  半月・半年ごとに繰り返すこよみ
  冬至夏至春分秋分
  上社・下社の対応(附・山アテ、堪輿
  六角と八角
 ○煉獄にかんする一考察……後景の鍛冶・硫黄
 ○技術の維持のための信仰・占術・呪術
●冶金伝承
 ○石…凝灰岩と花崗岩
 ○水銀朱とアマルガム(鉛)
 ○ブロンズ(錫)
 ○鉄(チタン・マンガン
 ○金・銀

 

あらためて

 今の今までだれも交差させなかった分野を混じり合わせることで、正しいとは言い切れないが、今までにない可能性を切り開くような人文学を欲している。

 

 このブログで追究してきた、「文化の類型が広がる背景にはある種のグローバリズムが介在している」というテーマは、これまでいくつかの可能性を提示してきた。天文学の情報のある程度の共有、鍛冶や採鉱、アマルガムなどの冶金文化の信仰文化への流入、インド洋やシルクロードの交易と説話の関係などは、多くの先人の事績を追いながら、モザイク状に推論されるものである。

 

 従来の人文学観の「農耕社会」偏重は、古典教養の農耕民重視のヒエラルキー、方向づけに従って、産業革命啓蒙主義革命による資本主義や民主主義、植民地主義という「国民政治・経済」形成にともなって、そのカウンターカルチャーのごとく成立したものである。

 それらを主導してきた裕福な商工業者のなかで、文献による記録を校訂し、出版し、読書するということが「教育」によって当たり前になると、それまで文字化されなかったかつての職人や商人たちの慣習はステレオタイプ化され、「起源」「精神」「神秘」「美」などという美辞麗句のもと、文字記録のなかの「古典教養」とはことなる「民俗」として、それらが本来持っていたネットワークとは切り離されたものとなってしまった。

 「古典教養」と「民俗」「大衆文化」のあやふやなつながりは、産業革命以前の人間の商工業と農業のかかわりを、上の美辞麗句もさることながら、民族や国家という「現在」を参照し、強引に関係づけることにあった。古代、有史以前、超古代といった先取性が強調されるいっぽうで、中世や近世といった、古典のイメージをときに歪曲しながらもそれらの言語文化を守り伝えてきた時代の存在を無視し、植民地や周縁の地域を「原始」と一括りにし、現実のイデオロギーヒエラルキーを持ち込むこととなった。科学文明や民主主義を主とする近代人とは相いれない「迷信」をもつ、権威主義的な古典教養、そして無学無文字の農民や野蛮人の民俗をアーカイブ化し、人類の根源を「まなぶ」ことが近代人への順化、教育に利用された。

 

 その結果、人文学は細切れに分断され、自国自民族しか見えていない、あるいはつられて他者も虚像化、理想化してしまうような言説が横行することとなる。帝国主義の亡霊は、そのまま先進国の幻影として、地に足のつかない政策や政治主張へと知識人を引きずりこんでいく。ここ数年、数十年の精神的な思潮で物事を覆すとしても、それは大海原にさざ波をゆらめかすような皮相にすぎない。

 ここで取り扱うような神秘主義や冶金文化、言語、墳墓や都城の土木事業にかんする偏見も、古代人が漠然と抱いていた畏れと、ジャーナリズム的批判はそれほどことなるものではない。その時々の知識人が、その時々の論理や権威に追従して、卑賤視したり迎合したりするだけなのである。

 

 背後に隠然と存する通時性、広域性は、まさにその論理や権威によって閑却されるものなのである。いま、「ミトラス教とはローマのノマド的な商工業者、軍人に信奉された芸能的な儀礼であり、遠く日本の舞楽面にも信徒の序列が引用されているように、猿楽・狂言にも間接的に影響を及ぼしているのではないか」とか、「たたらの送風や足踏みが舞踊や音曲の文化と密接に結びついており、神ののこした足跡や、雨乞いのための反閇などの呪術芸能は、かつて自然の雨風で炉を動かしていたことと関わっている」などの仮説を考えている。おそらく部分部分では唱えている先人もおられるだろうが、当時の社会観、偏見によって構成できなかっただろう。

 

 現代の消費社会によるイメージの粗製濫造、枯渇――マンガやアニメによる引用は、取っ掛かりとしてはよろしいが、研究としては深刻な停滞を引き起こすだろう。いっぽうでこうした統合をめざし、たかだか数百年でスタミナ切れを引き起こしている近現代の社会構造、地域性を、かつて迷信として放棄した中世以前の広域性、通時性への知見によって見直すことで、自己と他者の対等な関係によるグローバル社会の維持へとつなげることを企図している。

次代のフォークロアのために

 人と人が接し、何らかの表象や指示――いわゆるコミュニケーションが行われるとき、それらが明確に伝わり、実行されるかどうかは不確実である。そのため、コミュニケーションをより「均質的」に、誰でも同じように享受できる手続きないしシステムが整っていることが、音声や身振り、文字の体系を「言語文化」たらしめる要点であるといえる。

 

 こうして課された条件は、すでに万全に伝わるべく整備された、近現代の国語や科学観に慣れ親しんだ人間にとって、無意識に受け入れられ日常的に見過ごされているものである。サルや動物に言語が存在すると主張したり、有史以前の文字や文化を発見したという研究者には、それらが真に伝わるような「言語文化」を研究対象がひとりでに維持してきたのかという考察をうやむやにしている。考古学や動物行動学は、実験観察や発掘という行為を通じ「人間社会」を中心に据え、そのコミュニケーションの体系を絶対のものと信奉することで、動物や有史以前という「他者的存在」の言語を類推的に判じている。

 

 人文学とてこうした「言語文化」をはっきりと認識しているとはいいがたい。古代の言語を、また外国語を教養として学ぶときも、そうした「他者」の民俗まで踏み込んで、コミュニケーションがいかに維持されているのかを考えながら学ぶ人間は少ない。たいてい珍奇な迷信、風習として表象される。金がらみのスキャンダルに事欠かない、占いや魔よけや秘密結社という迷信も、宗教や信仰という言葉でさえも毛嫌いする人間も多い。恐ろしいことに、自国の儀礼であっても、近年は政治的中立・多様性とか虚礼の廃止とかいう理由で簡素化され、きわめて無頓着になりつつある。エアコン、ファストフード店、高速道路、大型ショッピングモール――年がら年中同じ生活様式を保つことが容易になり、季節感や土地柄などその場その場に適した習慣は時代遅れのものとして排除されていった。かろうじて残っている節分や節句イースターなどの行事は、今や消費社会のいち「トレンド」「風物詩」として生き永らえているにすぎない。

 

 しかしこれらは元より、他者とのコミュニケーションが円滑に行われることを企図した、言語に深く結びついた文化であるはずである。こうした慣行を排することで、かえって必要な情報が必要な人のもとに行き渡らなくなったり、何を実行するにもより金や資源を浪費する冗長性にわれわれは直面している。こうした鈍重鈍感な社会を「経済的な成長」「文明の進歩」と呼ぶのはたやすい。人間の相互理解の限界が生んだ、戦災からの復興成長を考え直すきっかけを、自然の猛威への震災、そしてコロナ禍を経験してもなお、十分に活かしているとはいいがたい。

 

 活字によって、言語文化はその通用していた環境から隔離され、人間の想像力や権威主義が生み出した「精神」「虚構」と位置付けられた。神秘主義者やオカルティスト、ロマン文学者はては幼児の娯楽にしか過ぎず、新奇な科学に駆逐され、大衆文化によって刻まれたステレオタイプはいずれ忘却される運命にある。ささやかな抵抗として、好事家たちは消費社会のセンセーショナルな事件や流行するフォークロアの中に、その残滓を見出そうとした。

 

 反体制の義賊、トリックスターピカレスク、カウンター・カルチャー――ありとあらゆる英雄が生み出され、幻滅し、それ以上の追究が行われることがなかった。現前する事象に神話を投影し、古代からの連続する「精神」を演出することで、からくも人間は人間らしくいられるのだ。大衆文化、とりわけサブカルチャーそうしたコピーのコピーを崇拝し、収集癖やフェティシズムに囚われることが、高尚な教養であると捉えられている。全体像、およびそれらを貫徹する原理の発見というのは重要視されていないようだ。

 

 人と人が接する場は、とりもなおさず「劇的」である。産業革命以前の商工業は、その遊牧(ノマド)性のため、つねに暴力や卑賤視と隣り合わせであった。採掘、河の汚染、土木工事などで自然に干渉し、災害や兵乱をしばし引き起こす生活様式が、人びとの畏怖をもたらすこともその要因である。しかしながら、秘儀や遍歴、巡礼などの通過儀礼、そして一年の行事を執り行うことが、属する共同体の生を体現し、起源を象徴するものであった。先述の反体制の英雄観は、古代の信仰、そして通俗化した語りという芸能の見せる幻影であったのだ。一神教であっても多神教であっても、農耕社会と商工業が一体をなす過程、コンプレックスが神話化の根源にあることは共通している。問題であることは、古今東西の神話の比較において、しばしば人類学が時代や地域、生業のつながりを断ち切り、押し花のように押しつぶした成果を「人類の普遍的な特性」のように観察していることである。それは現代の政治経済情勢、ひいては近代の植民地帝国のもたらした秩序の黙認にすぎない。

 

 いくら距離がはなれようとも、仕事がAIに代替されようとも、人と人のあいだにはフォークロアが成立しうる。記号どうし、物語間を比較した信憑性や確証をしるしづけるプロセスを認識し、透徹した言語文化観をもって考察することが、万人に対等なグローバリズムに資するものであることを信じている。

日本語の「語源」

 「邪馬台国がどこにあったか」と同じくらい堂々巡りを続けているのが、「日本語はどこから来たのか」という問題である。考古学的成果やDNA解析などと重ね合わされ、有史以前以後の人類の移動と言語を推測する研究も見られるが、確答は得られていないようである。その時々の政治やナショナリズムに左右されることもさることながら、「謎」や「真実」という扇情的な文字が躍らなければ、論争も世間の関心も呼び込むことのできない「無風状態」かつ「閉鎖的」なジャンルであることも一因であろう。

 

 そもそも言語というのは異個体、異集団間の交渉に益するように、たえず混淆し、意味を変えていくものである。この言語観は、文字化され、純化運動がおこり、集団ごとに特殊化された辞書や正書法が編纂される、これまで言語が歩んできた排他的・選民的な歴史とは真っ向から対立する。人びとは言語を自らのアイデンティティと錯覚することで、国語と外国語のような線引きを勝手に始め、そこにみられる現象をヒエラルキー化し、占有しようとしてきた。

 

 しかしながら、その占有のために「かたられてきた」ことを、言語の歴史として認めることができても、「本質」として認められることはできない。ましてや国境の引かれた地図や「縄文・弥生」などという時代区分、そして考古学的な遺物や遺伝子の型と「言語」を即対応させることは、(それがいかに科学的に立証されていたとしても、そこに粗野な占有意識が認められるかぎり)ナンセンスというほかない。

 

 文献学や考古学では、「現存する」ものから整合性の高い結論を導き出さなければならないし、一研究者の興味関心の領域いかんで、それはいかようにも荒唐無稽なものになりうる。それでも、定説化されてしまえば異議すらはさめなくなってしまう。世間の耳目を集めるような論争に明け暮れて、地道に他領域とのミッシング・リンクを埋める体系化の作業がおろそかになってしまった最たる例が言語研究である。それはやはり、一民族の民族語として、「日本語」がいつ形成されたのかというプロット、言ってしまえば「虚構」が、長い間更新されないことにある。

 

 インド・ヨーロッパ語族アフロ・アジア語族とて、語義・語源のわからない語や借用語に満ち満ちている。それはことばの話されていた「場」、職能集団がどのような領域と交渉をもっていたかまで追跡がなされぬまま、「語族」へと統合されてしまったことを意味する。しかもダブレットのように二重に流入したり、民間語源のようなまったく関係のない単語間のシンクレティズムが図られるなど、「重ね掛け(Dubbing)」がしばしばみられるのだ。通商関係でたどることのできる交易路、信仰で参照される歴史なしでは、言語間交渉の重層性を読み解くことはきわめて困難である。

 

 日本語も、有史以来けっして閉鎖的ではなく、陸路・海路に応じ、また信仰や通商の関係からさまざまな「語群」が流入したクレオールであるといえる。基層は南島漁猟民と北方遊牧民の交易のために存したのだろう。そうした傾向を同じくする朝鮮語は言うに及ばず、開音節化した漢語(馬・梅など)、仏教・天文学に伴う梵語やペルシア語(タミル語もこの次元で流入してもおかしくはない)、そしてスペイン語ポルトガル語、英語やフランス語等々時代に即してさまざまな知識とともに混淆が行われた。

 

 それは日本語がきわめて特殊で選ばれているからではなく、英語やフランス語とて同じような傾向を有しているのであるし、ことなる地域の人間を束ねるリンガ・フランカとしての漢字文化にも必要な視点であろう。ヘレニズムという時代やシルクロードという環境における(たとえば冶金文化のような)技術の往来は、そうしたミッシング・リンク、モザイク的構造の理解を助けるものになるに違いない。

眼のシンボル、邪視と癒しと冶金文化

 「産業革命、啓蒙革命によって失われたもの」というと、精神的な荒廃、そして公害や環境破壊というペシミスティックな側面が強調されがちである。これらを克服するために、例えば柳田国男は民俗的な伝承を守り伝えようと努力したし、南方熊楠は鎮守の森の保護運動を進めたし、鈴木大拙は禅や浄土思想など神秘主義の弁護をすすめた。西欧でも同様なロマンティシズムに衝き動かされた人文運動はよく見られる。

 

 しかしながら、こうした保護活動と同時進行で、説話と民俗、産業以前の生業が維持してきた緊密なネットワークが、細分化された学術研究によって断ち切られ、あるいはほとんど全容がつかめないようになってしまった。記憶として消えかかり、散逸しつつあった文化を文字に遺すという莫大な業績はまことに敬服すべきものではあるが、残した宿痾は根深いものがある。

 

 「冶金文化」といまのところ総称している、鍛冶や鉱山師などがかつて有していた鉄、銅の鍛造や鋳造をはじめ、水銀による鍍金や炉にかかわる送風などの知識(たたらや自然の風)、天文観察や土木工事、治水などを含めた技術の総体は、それを伝達、伝承するための語り物などの祭祀芸能と不可分であった。規模そして実情のあいまいな「農耕民俗」としてひとくくりにされ、「かたられる」起源をそのまま歴史に当てはめてしまったところに歪みが生じている。

 

 おぼろげな神話の類型とともに、安楽椅子の上で組み立てられた「農耕民俗」の理論は、「精神」という、きわめて不可解な根源を見い出すだろう。古典教養の指し示す、「素朴で無知な」農民たち、牧人たちへの書生じみた憧憬が、経済や政治にまでまとわりつき、いったい何人の人間を殺してきただろうか?抹殺してきたのは人間ばかりでなく、神話や習俗についての解釈もまたそうである。文化の根底に横たわるグローバリズム共時性が、国境や学問の領野によって分断されてきた時代であったといえるだろう。

 

 さて、本題の「目」についての習俗であるが、日本では鍛冶にまつわる神は一つ目だったり、目を傷つけてしまったといわれている。ギリシア神話の鍛冶の巨人キュクロプスとの共通性はしばし指摘されるところであるが、古代ギリシアと日本という時も場所も遠く隔てたミッシング・リンクを埋めないと、不誠実であると言わねばなるまい。

 

 窪田蔵郎はシルクロードの産鉄技術を探査した。藤野明の「銅の文化史」という著作でも、一帯のブロンズにまつわる技術の変遷が詳説されている。この広域に共通する文化を洗い出せば、鍛冶とともに伝わった伝承の見当をつけることができると思う。

 

 ギリシア小アジア、ペルシアにかけて、盲目に対する癒しについての信仰だったり、逆に邪眼への恐れが点在する。ゴルゴンは目を合わせたものを石化させる。詩人ホメロスは盲目と言い伝えられてきた。壁画に描かれた悪魔の眼は意図的に削り取られる。眉が白く「四つ目」に見える犬が死の象徴とされる。さらに古代中国では巫女の「視力」を際立たせるために入れ墨を施したことが、漢字の字源からも明らかである。

 

 鍛冶と一つ目、あるいは盲目のかかわりについて、炉を見つめ続けて視力が悪化した鍛冶たちを、神の表象に投影したという単純な理由付けだけでは説明が難しいのではないかと思う。炉を運用するにも、自然の風を利用するにも、季節や天候の見極めが肝心となる。天文観察は不可欠なものであっただろう。視力が弱まり星が見えなくなることは鍛冶の頭目にとって死活問題であったと考えられるし、星自体が「目」とシンボライズされたとも推測されよう。兵器が生産される季節に瞬く星々は紛れもなく「不吉」である。

 

 中世教会の装飾におけるユダヤ教の擬人化、「シナゴーガ」も盲目、あるいは目隠しをされていた。これには聖書の典拠があるとされるが、もしかしたらキリスト教社会でユダヤ人が鍛冶を担っていたことにも由来するのかもしれない。聖書内のイエスの癒しにかぎらず、巡礼におけるさまざまな奇蹟にも、盲目が癒される効験があらわれている。私はこれについて、中世の職人のなかには土地土地に「ウェールズ人」や「ザクセン人」と呼称される異邦人の職人が存在したことを含め、流浪の職人たちのなかには目を病んだ鍛冶がかなりいたのではないかと考えている(そして聖職者がプロパガンダを行うのとは裏腹に、かなり境域的にユダヤ人社会と接していたのではないかと思う)。

 

 盲目の鍛冶と、それを補佐するべき邪視を持つ巫女(遊女もいただろう)はセットとなり、次代の鍛冶たちのために知識を授けることになっただろう。地中海に広くみられる叙事詩や牧歌の語り伝えは、のちに「秘密結社」と呼称され、さまざまな霊感主義と憶測を生むことになるギルドによる秘儀伝授へと姿を変えていく。ヘレニズムやシルクロードといった交易が活発になった時代(とくに奈良時代)を介して、これらのオリエント的伝統は琵琶法師と白拍子たちの軍記語りへとローカライズされていった。

 

 そこには「舞」というファクターもある。ヘファイストスをはじめ鍛冶神の足の不具性もよく語られるところであるが、そこにはたたらの鞴を踏む模倣も含まれているのではないかと思う。反閇、禹歩などの道教由来の芸能も然りである(老子西遊記のなかでは鍛冶神として出てくるという、入谷仙介『西遊記の神話学』)。禹王と言ったら降雨や治水に関係が深いとされているが、ことに日本国内では「あめやみ」と「めやみ」のご利益は混同される傾向にあり、また語呂合わせだけでなく悪所の巫女と鍛冶は表裏一体を成すものである。この二つのあいだにはさらに「蛇身・竜」「河や山の境界、境界を維持するための土木治水」などのシンボリズムも介在するが、ひとまず措いておく。

 

 走り書きになってしまい、本題の邪眼についても不勉強で薄くなってしまったが、邪視と冶金文化の行われている地域を重ね合わせてみると面白いと思う。