マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

言語文化:生と死のあいだに……

 このブログでは、伝統的かつアカデミックな言語学とは異なる「言語についての学問」を追究するべく努力してきた。

 

 模範的な言語学では、たとえば「ピエールがポールを殴る」という文を、名詞や動詞、3人称現在や主格・対格という文法的な要素に分解し、同程度の文章、「ピエールは学校に行く」や、「リリーがべスを殴った」という文と比較し、その差異を「他動詞対自動詞」や、「現在対過去」といった現象(あらわれ)の対立として観察している。そしてそうした区分がなにに起因するか――民族や国家という巨視的なコンテクスト、あるいは脳の認知や生物的なミクロの進化を原因として解明するように展開してきた。

 

 外形としての文法と連動するように、内容物としての説話も、要素ごとに分解され、構造的に比較されている。こちらも同じように、集団語の内の巨視的なコンテクストと個の認識という微視的なコンテクストのもとで説話という現象が説明されてきた。

 

 文法と説話は、しかしながら、言語文化にとって欠くべからざる二大構造でありながら、言語学においては根本的に噛み合っていない。文法と説話伝承双方を取り扱った研究に出会うことはきわめて難しい。とくに日本の研究者の言語にかんする関心は、その時々のヨーロッパの流行をいわば受け売り的に翻訳し広めるのみで、俯瞰の視点で、オリジナルの言語でかたるものは皆無にひとしい。

 

 日本語で基礎的な研究が容易に読めることはたしかに利点ではあるが、そこには別の問題も潜んでいる。資料集めの制約もあり、他分野の研究を参照することが難しかった昭和時代以前はともかく、リファレンスがきわめて手軽に利用できる21世紀にはいってもなお、先鋭化した研究どうしを学際的に比較できずにいるのは、大いなる損失であるとしかいいようがない。一つひとつの研究には、研究者個人が気づきえない先入見や早合点、旧い知見や無知が含まれており、単純な比較はむしろ害でさえある。それでも、説話や文法にかんする、個々の研究の問題点を洗い出し、統一的な視座によって方向づけ、究明していくことが、他分野の研究をアップデートすることにもつながると私は信じている。

 

 

 往昔の言語文化研究は、近代科学文明を中心として、周縁の社会を「素朴」で「アルカイック」な研究対象にする傾向にあった。古典的な神話や野蛮な民族、女子供やアウトサイダーの有する言語文化は、進歩していく人類の「発展の過程」としてのみ意味をもち、都市に住まう洗練された教養人――多くが産業革命や啓蒙革命により発言権を得た商工業者に列なる――を中心とした精神的ヒエラルキーを形成した。

 

 ポスト・モダンやポスト・コロニアリズムといった知識人たちの運動も、60年代に端を発し、現在も根強く続く社会的アピールも、「長い19世紀」に形成されたこの近代的な「精神」の言語文化の両極に依拠するかぎり、旧態依然とした構造をいわば無意識的に引き継ぎつづけている。停滞しつつあった人文学を、たとえばその時代に進歩した(と感じられた)社会科学や自然科学に隷属させて「科学的」に説明ないし証明したりしたと思い込んできたことも、このヒエラルキーの浸透を疑問にさえ思わない状況に拍車をかけている。

 

 これはけして知識人の高踏的で冷笑的な体質いかんという問題ではなく、現実における差別的なシステムが、たとえば「民衆的」などというあやふやな美名のもとで塗り固められたり、名前が変わっただけでそれが継続されていると認識できない、歴史を繰り返す愚、ヒューマニズムの破綻を意味している。現代における人文学的な視点、教養の欠如は、すなわち経済や科学の根幹たるヒューマニズムの破滅にほかならない。それは一概には悪とは言えない。我われを覆う停滞の雰囲気は、いいかえればヒューマニズムが人間中心主義を脱皮し、別様なものへとうつる機運ともいえる。

 

 そうした社会のあらゆる先入見を排した、究極的な言語文化の淵源に立ち返ってみれば、そこには「生と死のあいだ」が存在する。そのはざまを埋めるように、繰り延べるように、我われはモノやコトを占有し、空間や時間を近く-知覚する。延べる-述べ、騙る-語りは、モノやコトと一体化することで、確証、信憑性を他者と共有し、空間的な伝達作用、時間的な伝承作用を機能させる。時も場所も離れた神話や伝説がしばし共有する説話素は、そうした作用を経て物語が広がった目印となるだろう。それは「貨幣」の流通システムとなって、豊かさを示すしるしとして現代にも息づいている。言語にくらべて貨幣は、通用する空間的な領域(space)、時間的な限度(time)が統一され無制限であると錯覚しているが、両者ともその意味や意義はつねに変化しつつあり、きわめて不確実なものにすぎない。

 

 あるいはこれを歴史的に、墳丘墓の周縁が聖域化し、そこにシャマニズムや巫覡の語りが発生し、一部は聖なるものへの信仰と化し、一部は民衆的な芸能、劇(ドラマ)へと異化されていった過程とも捉えることができる。それらの担い手として冶金や鉱山の知識を持った漂泊民たちが農耕社会ともった関わりは、死への問題――ケガレとして価値化される以前に、自然災害や兵乱などを起こす予兆として、具体的な畏怖を伴っていた。かれらは結社、巡礼により各地を移動し、聖域や聖なるものを制作、維持する必要不可欠な存在でありながら、それらを崩壊させかねない破壊衝動を秘めていた。信仰という生へのプロパガンダは、いがみ合いを起こしかねない共同体内の成員を通過儀礼で均一化し、破壊衝動を外へと逃がすように制度化された。古代中世の知識人のこうした試みはひとまずは成功していたように思える。

 

 畏怖は具体的な空間(風土や建造物)や時間(こよみや祝祭)とむすびつき、権威、権力として効力をもつ反面、鏡像のように、忌み嫌われるタブーを塑像していった。そうした存在への畏怖を超自然的、反実仮想的な「振る舞い」として象徴し、具体的なモノゴトへと――家畜や穀物、魚獣の収穫や木材、石材、土の衣食住にかかわる道具への加工、分有は、それらに必要な天文観察による気候や季節の予測、山河の環境変化などと重ね合わせられ、神話化した。

 

 かたりの文化は、時にコントラストを徹底させ、時に顛倒した世界を描くことを通じて、人間性の分節、分肢を主張する――それは、反実仮想的で複雑な文法構造をもつ古典文法から、それらがお決まりのクリーシェへと退化し、直説法しか存在しなくなりつつある俗語、口語に写し取られることで、良くてせいぜい純朴無知な想像力、悪くて虚言や病的な誇大妄想へと受け取られ、近代社会に偏見をまき散らすこととなった。

 

 反実仮想的な分岐は、直線的な時間や空間的な位置関係、成否を決定せしめる平叙文的構造にくらべて、「詩的」「文学的」な感受性に依存するものと捉えられてきた。多くは仮定、条件、比喩などに細分化され、その民族語、国語固有の(典拠がはっきりした)定型表現、スキーマを用いるように強制される傾向にある。この強い境界意識が、言語文化において「生と死のあいだ」を成すもの、すなわち聖なるものへの畏怖であり、いくぶんか戯画化された「欲望」や「忌避」として言語化されうるものである。

 

 しかしながら、それは前世紀において考えられてきた、モノやコトを統一的に支配し、それらから一段高次に隔てられている「精神」ではなく、モノやコトの確証性・信憑性として機能し、共同体内で共有される性質の言語文化なのである。

拡張する神話群――「物語る」言語の意味

 神話学は、「国」「民族」「階級」といった閉域、そしてその比較にとどまってはならない。

 

 「かたる」ことは、常に時間的・空間的に拡張していく性質をもっている。経緯をかたり、「かたる」という自らの行為自体を特権化することは、ひとえに閉じた領域を生成しつつ破壊するいとなみである。

 

 わたしはここ数か月、古代や中世の鍛冶職人や鉱山師、商人たち――ときに霊力をもつとみなされた祭祀芸能者でもある――の活動をつうじ、それが王を頂点とする農耕共同体にどのような物語を「占有したか」ということについて関心をはらってきた。錬金術や秘儀などは、古今東西を問わず職人や商人と結びついていた。職人や商人の遍歴は、異境や異教といった、ことなる領域どうしの知をめぐりあわせることとなった。

 

 かれらはまた、定住的な生活様式とはことなった感覚を持ち合わせている。移動にともなう数々の特権を有することに加え、みずからの属する共同体特有の言語体系によって、周囲とは識別されていた。言語がことなる共同体のあいだの暴力は日常茶飯事であり、しかもそれは理路整然とした閉域の法で取り締まることがきわめて難しかった――暴力を演じ、また扮することはかれらの知の体系の再現であり、つまるところ「死と再生」という特権を準備するものであった。無秩序な暴力はやがて祭儀として完結し、習慣化され、あらたな閉域を――聖なる空間と時間を神と人とのあいだにむすぶこととなる。それまで、移動による拡張は多くが無意味にみえる「流動性」「変種(ヴァリアント)」を生み出しつづける傾向にある。

 

 「かたり」の多くは、(近代人の峻別しようという努力もむなしく)宗教的なものと世俗的なものが未分化であり、それらにまたがる特権化を、ある「もの」、「媒体」にことよせて生み出されている。

 

 職人や商人たちが取り扱う道具――しばし魔法や奇蹟の証とされる刀や杖、臼、薬、山車その他は、その目的となる富や繁栄をその根源に投影しながらかたられる。かれらはその道具によって識別されるような社会集団を営んでおり、その恩恵としてさまざまな特権を支配者から許されている。権力者の墳墓は、ただ強制労働の産物として存在するだけではなく、巡礼し、儀礼にのっとり特権を確認する場として、またその歴史的起点として位置づけられている。そこに象徴されるような「死と再生」という物語の舞台装置は、徒に儀礼の遂行者たちの願望であるのみならず、死者と遂行者との社会的関係の淵源を行為遂行的(Performative)に「演ずる」ことにより、その生を更新する(ありつづける)ために必要とされる。見立て、再現し、目撃すること――マレビトを饗応し、共有することの効力は、今なお呪術的に根強いものがある。

 

 たとえば、生をも死をも振り切るような「あそび」を持つ、「トリックスター」の存在は、その演者と観衆であるところの職能集団どうしをわかちがたく結びつけるだろう。芸能集団と社会の結びつきにより、ジャーナリズムは体を成してきた。ジャーナリズムは社会悪を出し抜くトリックスターとして機能し、その勧善懲悪的、教訓的、合理的な主義主張によって、民衆の国民国家への統合を扇動してきた。1750年代からの「長い19世紀」は、フランスのサロンにおけるトリックスターが暗躍した時代でもある。のちに文化人類学トリックスターを研究する母胎となる、新聞や雑誌などの「公共圏」の誕生にも、理知的に見えてこうした物語的、呪術的なプロットを見て取ることができる。

 

 死や再生のみならず、かずかずの非現実的――反実仮想的な物語は、不確実で、不定形な未来と過去を「置き換える」象徴の体系によって成り立っている。それが拠るところの社会的階層や歴史的展開などの「構成」のうちに、分肢となる両極端の事象とを対応させる視点――これは文献学的には予型論といえるかもしれないが、これは前述の「投影(Projection)」によってそうした階層や展開に一定の「強度」をもたらしている。かたられることばが「張りめぐらされ」、強固であることで、共同体は閉域化され、一種の規範が生み出されることとなる、過去と未来のゆるやかな相似形は、たとえば「して行く」と「して来る」で過去や未来を言い表す文法に見出すことができる。反転した価値観で表されるヒエラルキーの対比といった修辞にもこうした「投影」がみられる。

 

 こうした共同体が緊密な閉域であるだけ、襲来する「特権」のもつ破壊力はその象徴体系のもつ効力、信用としてひとしく強大となりうる。ナショナリスティックな教養で固められた戦前社会を襲ったノマドアメリカ的な消費文化がどれだけ羨望されたことか。羨望することで、みずからに幽霊を投影することができる。聖なる土地、聖なる祭祀を区画し、占有するという行為は、一方の体系をもう一方が破壊する。祭祀儀礼を「演じ」「扮する」ことが、自らが他者に対峙する「特権」をもつことを引き出す。これは近代社会の義務と権利のもととなる基礎的な考えであるし、貨幣のもつ信用と商品のもつ信用を等価でくくり、取引する経済のもととなる。もともとこれは祭司や王などの支配者が「こよみ」や「風土」を熟知し行ってきた「マツリゴト」にかわり、一年中いつでも、世界中のどこでも通用する政治経済を確立する、という近代最大の欲望にのっとって遂行されてきた破壊行為である。

 

 15世紀のルネサンス以降、それまで流動的に遍歴しのけ者にされてきた、職人や商人が主導して進めてきた科学や政治の革命は、先行する王や貴族たちの古典文化にまして「類型化」を促す傾向にあった。活字による出版と教育、読書が定着するにつれ、社会の流動性は失われ、閉域に鎖され、それらに取って代わるような「機械」と「型」の思想が蔓延していく。元来職人たちや商人たちの持っていた口承的な「錬金術」「秘儀」のシステムは、その本質である「流動性」を見失い、近代という定点からみた奇異さのみが強調された。かつて彼らの身分を保証したところの「秘密結社」的儀礼は、社会を顛倒する暴力として、しだいに排除されていくし、神秘主義は、つまるところ野蛮で無知であるというように軽蔑されるようになった。

 

 研究者は、それらが祭祀芸能の名で侵入する、農耕共同体において表面上主張する「豊饒」という偽りの目的に眩惑され、「原始」という目に見える他者を追究することとなった。それは傲慢、偏見に見えて「進歩」という目的のために消費されるべき(文明化されるべき)植民地という他者への潜在的脅威であった。廃用となり、行き場をなくした「原始」は、芸術としてもてはやされたり、形を変えて社会運動の原動力となってはきたが、その本質は歪像であり、細切れに分断されほんらいの統合的視座を失っている。ハードウェアが進歩し、大容量の映像と文字による記録がインターネット上にアップロードされる時代においても、ソフトウェアとしての視点が更新されないままでは、これらがもっていたネットワークの故を温ね、活用することはできない。現前するグローバル社会を維持し、理解するためには、閉域や障壁は乗り越えなければならないのだから。

十二支と十二星座

 日本神話は「星」と疎遠であるといわれている。

 

 江戸時代の国学あたりからか、農民は早寝早起きだから星を見る余裕がない、という至極てきとうな決めつけがなされてきた。そのスタンスは概ね現代に受け継がれている。農民は迷信的で純朴無知であるという、近代特有の啓蒙主義的な決めてかかりも影響しているのだろう。

 

 しかし、本来農業というのは気候や季節に鋭敏な感覚をもって運営されなければならないはずである。太陽、月、星の観察を積み重ね、梅雨や台風の時季を正確に予測せねば、飢饉は免れえない。それに、昔の農業にはずっと多くの人間が携わる集約的なものであった。領主や地主たちは祭礼などを設け、彼らの適切な労務管理をしなければ、一揆・打ちこわしなどの具体的な損害にかかわってくるはずだ。

 

 これは鉱山やたたらなどにも言える話である。江戸中期の学者、佐藤信淵の述べる鉱山の一年には、(ある程度理想化されているとは言え)おおよそ半月ごとに狩りや祭礼を行うことが記されている。ふいごや自然風を用いたたたら作業は特に、蒸気による炉の崩壊などもあって、晩秋や冬の寒冷な時期が好まれたようである。

 

 渋川春海の貞享暦以降、日本のこよみや時間感覚は徐々に共有され、広く統一されていく。明治政府の太陽暦採用も、一人ひとりの時間感覚の希薄化に拍車をかけた。鉦や時計などで時間を量ることが一般化されてしまえば、星にまつわる昔話など忘れ去られ、好事家しか興味をもたなくなる。まして占いという非科学的な「迷信」と結びつけられてきたわけであるから。その代わりに学校教育で得られたものといえば、都市化や機械化とひきかえに退化し、すぐに忘却される運命にある「空間認識」「時間感覚」と、凡庸な「貧農史観」による、上へ上への怨みの転嫁である。近代社会の病理――文字通りの「病気」や、社会のアンバランスさは、こうした歪みに起因するものではないか。

 

 さて、本題の「十二支と十二星座」である。十二支は木星の公転周期約12年により分割された空の領域をもととしており、12星座は1年の太陽の見かけの回転を12等分した空の領域に由来している。天文学は(鉱物や岩石について興味を持ちだした地学と並んで)不案内なのだが、太陽も木星もどちらも黄道帯に沿って移動するらしい。十二支は方位とも、また北斗七星の柄が指す向きとも結び付けられているので、正確には「十二次」を用いるべきかもしれないが、「十二支」を用いる。

 

 十二支は中国由来であり、十二星座は古代バビロニア由来である。当然ながら、対応関係が問われるところとなる。香川高松で古代中国の度量衡、そして十二支と十二星座の研究に人生をささげた大西正男は、『十干十二支の成立の研究』で、以下の対応関係を示している。

 

おひつじ(4月)⇒子(旧11月)

おうし(5月)⇒丑(旧12月)

ふたご(6月)⇒寅(旧1月)

かに(7月)⇒卯(旧2月)

しし(8月)⇒辰(旧3月)

おとめ(9月)⇒巳(旧4月)

てんびん(10月)⇒午(旧5月)

さそり(11月)⇒未(旧6月)

いて(12月)⇒申(旧7月)

やぎ(1月)⇒酉(旧8月)

みずがめ(2月)⇒戌(旧9月)

うお(3月)⇒亥(旧10月)

 

 十二星座の後ろのカッコはおおよその期間、十二支の後ろのカッコは、私が独断で付した吉野裕子が『十二支』などで示している旧暦との対応である。やや成立年代の異なる、太陽と木星の進行であるから、見かけはずれているように感じてもさほど問題はない。バビロニア占星術はおひつじ座を春分に、中国の古代暦は(三正などのくわしい経緯はまだ勉強中であるが)子を冬至として合わせている。

 

 大西氏は十二支の字形と星座の形に関心を払っている。しかしながらわたしは、「おうし」と「丑」の対応関係と、双方の季節的立ち位置に興味を覚える。

 

 おうし座はかつて春分点を有していた。だいたい2000年ごとに移動していき、おひつじ、うお、みずがめと変わりつつある。オリエント世界では、神のイメージはこの春分点の星座によって移りかわっている。黄金の雄牛を崇拝したエジプト人ギリシア・ローマの牧歌やイスラエルの預言で救世主とされた「羊飼い」、そしてイエス・キリストの象徴とされた「魚」――死と再生とも結びつく。たとえばおひつじ座はバビロニアでは「若い農夫」とされていた。これは一度死して蘇る農夫神タンムズ、ドゥムジとも重なる。

 

 いっぽう、十二支で丑に割り当てられたのは12月で、立春となる寅の月との境目は、いわゆる「土用」に充てられている。とくに冬から春の変わり目とされる「丑寅」は方位と結びつき、「鬼門」とされた。牛の角に虎の腰巻という「鬼」のスタイル、鬼門除けのための比叡山天皇の葬送にたずさわり、鬼の子孫とされる八瀬童子など、生活と結びついた事例は枚挙にいとまがない。

 

 木星はまたマルドゥク神やユピテル・ゼウスと結びついていたから、木星の運行で黄道を12等分するというアイデアは珍しいものではなかったのかもしれない。そしてその起点を、月の形から牛の角に見立てたとしてもおかしくはない。

 

 また、春分点占星術などで「竜の頭」とされ、インドでは「ラーフ」という天体で表された。春の訪れと夏の盛りを「竜」で表現する文脈はユーラシアである程度共有されていたとみられ、辰と対応するしし座には、バビロニア時代に竜蛇が付されていた(近藤二郎)。とすると、豊穣を司るおとめ座の女神も、竜女や蛇女の類だったのかもしれない。

 

 余談であるが、高気圧による辰巳(東南)から吹く風は、作物の豊穣をもたらし、またたたらに利用されていた(製鉄に崇拝される稲荷、そして南宮大社などの金山神社はこうした風の神であったと考えられる)。対する低気圧特有の戌亥(西北)の風はアナシと呼ばれ、早くは伊吹山の猪であったり、奈良時代には竜田の神が風の神として、また平安時代以降は愛宕山付近から吹き付け、天神などの怨霊が雷雨をもたらすと恐れられた。大極殿の西北に北野天満宮が、火伏の神が愛宕にあるのはその名残と考えられる。

 

 冬の盛りには、ヤギの角をもった悪魔や、ネズミを従えたオオクニヌシなど、死を司る神が鎮座していた(ヤギの上半身、魚の尾をもったシュメールのアヌの使いは、インドではワニなどで表される水天ヴァルナの使いであるマガラに相当する)。

 

 さて、こうしてだいぶ寄り道しながら十二星座と十二支について論じたのは、ひとえに日本神話と星座の関係を探る準備稿である。サンスクリット語で書かれた星辰神話として古事記を読み解こうとした古代語研究家の二宮陸雄氏などのイレギュラーを除けば、オリオンの三ツ星を住吉三神猿田彦をおうし座のアルデバランと推定する国文学者の勝俣隆氏、日本の星神話を収集した天文研究家の野尻抱影氏や原恵氏など、先行研究は割と豊富にあるという印象だ。黄道というより、太陰暦で重要となる星宿、北辰崇拝で重視された北極星(これも2千年ほどで推移する)に集中している。

 

 そして物部氏の子孫として九州に伝わっていた星の口承を記録した真鍋大覚氏の著作『儺の国の星』である。氏の著作の膨大な情報を、以上の推定と照合していけば、どのような天文情報が古代中世から日本で通用し、どのように民俗文化となっていったかを探る手立てとなる。すでに逸失したといわれる藤原隆家(中関白道隆の子、伊周の弟、道長の甥)が大宰府で筆録させた『石位資正』は、倭名類聚抄の星宿の和名をもとにした著作であったといわれる。氏の該博な知識は、金星暦や土星暦などにも及び、またそうした天文観察が鍛冶や航海の場でじっさいに利用されてきた知識であると想像し、また信憑に足るものとなっている。

 

 真鍋氏の例をみると、偽史偽書とされる中世神話や、江戸・明治以降成立とみられる古史古伝が、ほんらいはこうした口承で伝わった天文知識であった可能性(プラスアルファでその当時の奇怪な科学が付加されてしまっているゆえに、偽史となる)が大いにある。検証を要する事項である。

 

 地名に付された十二支の獣名と土地の形質がリンクしているのではないか?という説。結構自信があるけど表立っては言えない。

matsunoya.hatenablog.jp

 

詩や 和歌も天文知識とは不可分である。

matsunoya.hatenablog.jp

神話から文藝、文藝から科学・教養……マニフェスト

 この数日間、水銀朱についての研究から派生し、鉄や銅、礬類やナトリウム、硝石、花崗岩や凝灰岩などと歴史の関係を調べていた。

 

 従来の「風土」論は主に気候や植生が中心であった。そこから気質や精神、文化との関連を説明するのであるが、多分に国粋主義的で、「環境決定論」とまで揶揄される独善的なものであった。しかしながら、北方人は勤勉で、南方人は怠惰で未開などという類型は、「南北問題」のような経済問題として形を変えながら受け継がれているように見えるし、「照葉樹林文化」とか「日本は木の文化、ヨーロッパは石の文化」というようなお決まりの成句となって、知らず知らずのうちに新たな研究の可能性を潰していることもありうる。

 

 近代的な国境や人種、民族の概念にかぎらず、古代・中世・近代等々の時間の枠組みは、本来イメージをもたない不定形な指示対象である。しかし、具体的に物語る「ことば」を与えられ、そこに画像や音声、映像が付随することによって、何らかの意義をもつように凝り固まってしまう。気候や植生すら、何度か訪れた温暖期・寒冷期の繰り返しや、人為的な伐採などで変わりうるにも関わらず、容易にイメージしやすい、人間の文化を説明可能な体系として受け入れられた。

 

 それでもこの安易な風土との合一は、近代の科学者・教養人が、みずからの立脚する「近代性」をいかに説明するかに払ってきた努力でもあるため、一概に否定できない。商人や職人たちが主導してきた産業革命啓蒙主義革命は、古代人や中世人が墨守してきた「時間性」と「空間性」――こよみや風土を知から取り去り、身分を越えた普遍的な学問を打ち立てようとした。(神によって与えられた)周期をもったリズム性や特権意識から、人間主体で改変可能な、自然の法則性の解明、義務と権利へと関心が移り、それにそぐわないものを「迷信」「未開」として排除するシステムが徐々に形成されていった時代でもある。

 

 宗教や文芸など、伝統的な文化を継承した「教養人」たちは、「近代人」というクランに課せられたこの厳しい「検閲」から逃れようと、さまざまな理屈を考えだす。その一つが風土論であり、現代人の眼からは疑似科学的な適者生存や、進歩史観帝国主義、優生思想である。近代以前の「選民」意識を満たすかのような、現代ではタブー視されているこれらの説明体系は、たとえば「先進国」「発展途上国」のようなクリーシェ(常套句)となって21世紀を生き延びている。いくら先端科学を称揚し、最新のデバイスに囲まれていても、人文的教養が「近代」の枠組みから更新されていなければ、それらを使いこなすことはできない。(SNSはすでに小市民的な息のつまる選民意識であふれ返っている!)

 

 いまこそ、「学藝」意識が求められている。古代人が身の回りの事物をふくむ「みずから」の来歴、領域を生み出した「神話」を、中世人が意味を与え、統合し近代へと伝えたように、近代人の遺した「科学」や「教養」を、綜合し時代へと伝えなければならない。

 

 鍛冶や鉱山にかかわる知識は権力にかかわる「タブー」であるため、ときに悪魔や鬼のような「アウトロー」として、中世社会では放棄すべき「現世の富」、近世社会では唾棄すべき「貧しさ、無知無教養」と見なされ、正当に評価されてこなかった分野である。また放浪を続け行く先々で「特権」を主張する必要性から、「農耕民族」の研究のなかでは原始的な祭祀芸能と見なされている。漁撈や狩猟などの儀礼をふくむ多岐的な信仰体系は、通説的な原始的イメージとは反し、天体の運動の観察、土木工事による墳墓および建築物の形成、そして鉱石や水脈などの知識を要し、さらにその土地その土地の宗教的・政治的支配者と対等な知識人である必要があった(たとえば12世紀の石工たちはスコラ哲学を学び、それに沿った教会建築を行う必要があった)。かれらが定住するまでに持っていた、多くは口承、無文字の学藝の体系は、近世以降の規範意識のために、おぼろげにしか伝わっていない。

 

 しかしそれは、近代以降は「美」として処理されてしまいがちである「石の文化」「金属の文化」に顕われているはずなのである。路傍の石仏を見れば、そこに産出する可能性のある鉱物があらかたわかる。あざやかな水銀朱やベンガラを施された墳墓を巡礼してもである。温泉は同時に硫黄や明礬やナトリウムを産生するし、井戸の奥底や荒れ果てた家屋からは焔硝を取り出すことができた。たたらを踏む特徴的なステップは魂を呼び寄せる呪術的な反閇や舞踊へと姿を変え、南東の風への信仰は「竜蛇神」の崇拝、物語へと結びつく……

 

 現代を生きる我われは、「いつでも、どこでも、だれでも」当てはめることのできるような、いわば普遍的でマクドナルド化した科学、精神論で文化を説明しようとする。物事があまりにも細分化され、微視的になるばかりで、全体像としては前述の「選民」を換骨奪胎したにすぎない現代意識がいまだ罷り通る。学問をジャーナリスティックに、またエキゾティズムへの憧憬、好奇の目から見る視座は、杓子定規に現代的価値観を押し付け、歴史に「もしも」を付け加えかねない不器用さと表裏一体を成す。

 

 思うに、人文学によるこうした考察は、外来思想への無批判な崇拝や、非現実的かつ空想的な生活様式の押しつけにたいする環境的な負担を見直し、ほどほどに見合った「エコロジー」「エコノミー」を実現するのに役立つのではないか。もちろん、グローバルな世界におけるローカルの立ち位置を再確認することで、自国中心主義、孤立主義に陥る恐れは排除できると信じたい。

 

現在、主な関心のある領域は以下の通りであり、すべてが緩やかにネットワークでつながっている。

 

●水銀朱、鉄や銅、礬類やナトリウム塩、硝石、温泉、花崗岩や凝灰岩と歴史文化

●鉱山・鍛冶伝承の研究……神仏習合との関連において

佐藤信淵

●中世ヨーロッパ・ロマネスク期の文芸と錬金術の研究(12世紀ルネサンス前史)

●中国古代神話と中世怪奇小説の類型学

シルクロード海上交易路、十字軍などと文化交渉(および前段階としてのヘレニズム文化)

●語族とクレオール文化

●農耕文化と各種ノマド文化との交錯としての神話、祭祀芸能誌

モザイク的歴史叙述、キュビズム的歴史観

 辰砂の歴史研究、などという大風呂敷を拡げてしまった。

 

 日本については市毛勲『朱の考古学』や蒲池明弘『邪馬台国は朱の王国だった』、上垣外憲一『古代日本謎の四世紀』、そして何と言っても松田壽男の『丹生の研究』『古代の朱』ですべて出尽くした感がある。ヨーロッパ方面については『金枝篇』や『河童駒引考』のような博覧強記からの、完全に推測の域を出ない。鍛冶にかんする伝承は、農耕の豊穣崇拝と同一視されやすく、異教的な悪魔崇拝やオルギーという見方しかされてこなかった。

 

 いままで抑圧されてきたマイノリティの解放を謳う社会運動により「民衆的」で「異教的」なヨーロッパが脚光を浴びたさいも、これらの扱いはいわゆる「オカルト」や「ニュー・サイエンス」じみたお国自慢の域を出ないありさまである。現在紐解いているケルト神話の本がまさにそんな感じだ。そして今、異教の神々をネット上で調べると、ソーシャルゲームの画像しかヒットしない。

 

 わたしの研究手法は、なるべく大きな枠組みを仮説として囲っておき、取捨選択した史料を後で抜き書きする……というスタイルである。そのため、どんどん大風呂敷にはなるが中身がスカスカになりがちだ。このブログの記事も、どれだけの「構想」を放置してきたことだろうか。

 

 史料の切り貼りも上手いとはいえない。一つの人間の学説や著書ではなく、「発想」を中心に本を読んでいるために、恣意的な抜きだしも多く、おそらくぼやけたモザイクのように映ることだろう。そういう自嘲をこめての表題「モザイク的歴史叙述」である。

 

 しかしながら、もう何々派で明確にくくれる歴史学派や、何々史観で説明可能な歴史観が存在しない現在において、「モザイク的歴史叙述」は、かえって人間の営みを歴史として叙述するに最適なスタイルなのではないかと思う。

 

 近代は国境線や人種間・国家間・民族間・職業間のカースト、古代・中世・近世・近代といった時代の枠組みなど、なにかと明確な境界線を引きたがった。歴史家は少しページをめくれば、自らの集団の優位性を説くことに終始しがちである。こうした見方に反発し、「弱いマイノリティ」を擁護しようとロマンやエキゾティズムで物語ろうとする歴史家もいる。「どちらの陣営に付くか」ということが論争的なポイントとなり、歴史を研究する巨視的なシステムの刷新は、図られないままだったといっても過言ではないだろう。

 

 近年は集団間の「境域」や境界線にほど近い「限界」に目を向け、歴史を叙述するスタイルも増えてきた。そこから見えてくるのは、レコンキスタの時の傭兵や、宗教的な差別に苦しむ学識を持った女性といった、歴史家が唱えるイデオロギーやテーゼでは簡単に塗りつぶすことのできない、染まりきらない人びとの存在である。たとえば中世を生きる人びとは決して自らが蒙昧な中世を生きていたと考えていたわけではない。彼らは古代の「滅亡」を分析し、巨人の肩の上でより広い視野でものを見ようとしていた。

 

 人間性なるものを判断するにも、複数の視点からの評価が必要不可欠であるように、歴史にはそれに取り組んできた多くの研究者の論を博捜し、多面的な歴史像として後世の批判をあおぐことが必要ではないだろうか。学説史などにもみられるようにその時代、その地域のスポットライトの当て方には、影となるパラダイム――その当時の社会が直面していた問題がおのずと見えてくる。わたしのこの「キュビズム歴史観」には、前述のように「塗りつぶすことのできない、染まりきらない」社会を日々目にしているからであり、近年の難民や政治運動など、熾烈なレッテルの貼りつけあいからなおも逃れようともがく意識のあり方を、どうにかして言語化できないか、という試みの内に成り立っている。

 

 書かれ、印刷された活字、ディスプレイに光るテクストや画像の背後には、つねにこうしてすり抜けていく「口承」的なエッセンスが漂っている。それは必然的に現代の空気感に似たものである。例えば鍛冶と祭祀芸能の関わりの後景には、連日連夜の鍛冶作業のなかで、農耕社会の迫害や差別、卑近で言えば「騒音・汚染の苦情」から逃れるために夜通し遊女と遊ばせたり、巡礼や寝ずの番(庚申待)、霊薬聖水などの崇拝を広める人びとの姿が浮かび上がるだろう。

 

 俗な週刊誌風に言えば、「政治やアウトローと宗教・スポーツとの癒着」がテーマである。産業革命がもたらしたであろう社会構造の変貌は、同時にこれらの問題を死に直結する一大事から、娯楽や金といった余裕・悪徳へと意味を変化させたことにある。ふだんレッド・ネックを見下す高踏的なリベラル・エスタブリッシュメントが難民などの支援を白々しくも呼びかけるように、現代の「余裕ある」視点から、古代の「切実さ」を嗤うことはできない。それは、ポスト・コロナの歴史意識をゆるがすものであるだろう。

ポスト・オリエント学と水銀朱(辰砂):ユーラシア情報文化圏交渉比較環境人文学として

水銀朱(辰砂)の用途

①「朱」として顔料、装飾的要素に

②「水銀」を精錬し、金をアマルガムめっき(中世以降は鏡の研磨にも使用)

③「朱」や「水銀」を薬として使用(殺菌・ミイラ化)

④水銀と硫黄から化学的に合成する過程を、錬金術や神話などシンボル化

 

 従来の神話解釈・歴史解釈は、豊穣を願う儀礼の顕われと解釈するなど、「農耕社会」を前提としてきた。一方で採掘や精錬、鍛冶などの工業的発展は、古代・中世においては「文字に遺されない」という暗黙の了解がある。化学変化や工学的な変型を扱うこれらの職業は、商業とともに、宗教的に卑賤視・迫害されてきたという見方が一般的であろう。

 しかし、産業革命以降の農業と商工業が厳然と区別されていること自体が歴史上特殊な事態である。農業にとって、これらの従事者が存在しないことは、相当不自然なことと言わなければならない。それは、狩猟採集や石器使用の時代から言えることであろう。ひとつの社会集団に多かれ少なかれ、差別や卑賤視などで衰微しているにしても、石器や金属製品の生産機能が伝承とともに存在しているといえるのではないだろうか。

 

 「農耕民」と「遊牧民」が自然に湧き出てきて、前者が後者に征服される、というイメージが、従来の縄文人弥生人の対立、および渡来人史観にはある。これはひとえに古典的知識の逐語的反映や、敗戦のときの連合国軍占領の記憶が影響しているのであろう。移住のための形態としての「遊牧民」「海洋民」が定住の形態としての「農耕民」として定着し、別の「遊牧民」の支配を受ける……という図式のほうが適当のように思う。そのため、移住時にかれらが持っていた伝承も、定住や農耕社会への変化によって意味的な変化を被ることは当然ありうる。その中で支配の過程に生じる「遊牧民」と「農耕民」の交流や混淆という事態……典型的には、「市」や「歌垣」、そして「戦争」などで起こりうる「祭祀芸能(ものがたり)」という現象に着目しなければならない。この視点は、農業にかかわる民俗文化を、従来よりゆるやかな視点でとらえることとなる。

 

 農耕社会も、それにかかわる宗教性やモノへの崇拝も、表面的には「遅れた、病的な思考」または「立ち返ることが必要なまで隔絶されたノスタルジー」として拒絶しているわたしたち現代人も、テレビやラジオを中心とする(近年ではインターネットもふくまれる)消費社会のなかに、この「祭祀芸能」的側面を残して生活している。たとえばテレフォンショッピングでプレゼンターから説明を聞き、衝動的に購入してしまう心性と、古典的な三種の神器をめぐる起源譚を信奉する心性に、どのような差異があるだろうか?

 

 販売員という「マレビト」から聞いた道具にまつわる「起源」、およびそれの有する「効能」を聞き、有名人が愛用しているという「お墨付き」をもとに自分もあわよくばその恩恵に浴そうとする。いわば「レガリア」を中心とした共同体ができるわけであるが、これは古くからおこなわれてきた祭祀芸能を、「消費社会」というレッテルのもとにモダナイズしたに過ぎないと考えることもできる。

 

 昔の人びとも多かれ少なかれ、「死」から逃れるという願望のもと、宗教的な説法、または神話や歴史などの再現劇を見て、あるいは通過儀礼などで体験し、その共同体社会に属してきた。ユーラシアではその多くが古代からの「墳墓」のもとで展開され、のちに各宗教の「聖域」となり、それを結ぶ街道のもとに都市が形成されてきたことが要となる。遊牧社会と農耕社会の結節点に、聖人なり英雄などの「死」がいわば裏付けとなるのである。この「結節点」は遊牧民と農耕民が交錯する都市共同体という経済的性質だけではなく、王権や聖職者などの「権力共同体」、そして彼らが用いる「言語」――近代植民地でいうところの「クレオール」や「ピジン」にちかい――においても現れる。

 

 近代社会は安定した「国語即国民(民族)観」のもと歴史を編成した。そのひずみは「外来語・借用語」の国語化といった排斥や、異域からの文化的流入にたいするアンビヴァレントな感情、そして国内における「地域の序列化」を――アメリカなら方言、フランスなら南仏、日本なら東北や北海道など――引き起こすこととなる。言語が波紋状に波及していったとする方言観の誕生と、いわゆる方言札による「共通語」の強制は、そこに住まう住民にすら偏見をもたらすこととなる。近代以前の散文的雅語(いわゆる文章語)と韻文的な俗語というどちらかといえば修辞学的な技巧だったものが、言文一致を経て「役割語」のような強烈なカースト意識を作り出し、さらには外国語どうしの語族の違いによっては、相互的理解も不能であるかのような錯覚を生み出した(これが幼少期からの外国語教育、などのような信仰を作り出す)。

 

 歴史観も「虚構」や「精神」、「教訓」といった恣意的な取捨選択が行われ、あるいは「真実」「謎」「美」などといった中途半端なリアリティをもてあそぶこととなる。祭祀芸能が死などといった切迫した問題と直結していた時代から、娯楽や消費という余裕へと寄り道しつつあった輝かしい発展の時代にあって、「プロパガンダ」で民衆を扇動するようなスタイルも出現した。その結果が、二次の世界大戦と、いまだ解決しない差別や社会問題の繰り返しである。これらについては以前論じた。

 

matsunoya.hatenablog.jp

 

 神話伝承はこれまで中央官僚や詩人の恣意的な「創作」「虚構」と考える向きが優勢であった。昭和の陰謀渦巻く政界劇に飽き飽きした社会派歴史研究者たちは、その枠組みを古代史研究にも敷衍し、天皇藤原氏の「陰謀」のもと純朴な民衆から奪われた原伝承を復元しようと躍起になった。しかし、彼らが「安楽椅子から」夢想したように、上からの強制的な押し付けだけを想定するわけにはいかない。下からの突き上げとして、各地のヴァリアントが統一される必要もあったはずだ。それを証しているのが、各地に残る「何々塚」――小野宮惟喬皇子や小野小町西行和泉式部だったり、物部氏や平家の落人、南朝の皇子など、「貴種」「流浪者」「政治的敗者」が落ち延びたという伝承である。

 

 思うに、これらの子孫を称することで、先述のように遊牧する「特権」「起源」およびそれを証するような「現在の支配者との関係」を誇示することができる。それは木地師だったり、猟師や鍛冶師などの「アウトサイダー」にとっては、偽書や僭称をしてもなお生存のために必要なことであった(かれらはとくに小野という名称に水脈「ミヲ」や金脈「ネヲ」という意味を持たせていたのではないだろうか、また、熊野別当の闘鶏説話や、マーリンの二匹の竜の説話にみられるような、赤と白の軍勢にまつわるシンボリズムも考察の余地がある)。かれらは神楽や能楽などの歌舞音曲にそうした起源譚(語呂合わせなど通俗的な語源による説明もふくむ)を盛り込み、墳墓などの聖地から都市を伝い、山海河川などのさまざまな物産の産出地を渡り歩き、伝承を拡げていった。おそらく聖人や王権をかざして、ヨーロッパやインド、中国や朝鮮においても同じような機能を担い渡り歩いた人びとがいたことが予想される。世界中の伝承の中には、起源譚による特権の説明を喪い、単なる「怪異」や「幻視」、「悪魔崇拝」と見なされた事例も数多い。

 

 迫害を受けることもたびたびあった。魔女やベナンダンティが宗教裁判にかけられた近世の一時期は、歴史的な寒冷期のもとの不寛容な集団ヒステリーと考えられがちである。しかしながら、まだ確定的に断言することはできないが、例えば鍛冶集団に対する農耕社会の見方の変化に起因する……と考えることはできないだろうか。暴風雨の中でも夜中まで止むことのない鍛冶作業や、水質汚染による人や家畜への被害、そして揮発や化合、無毒化などをたとえば「昇天」や「神秘的和合」、「呪殺」などという錬金術に似た語彙で表す伝統が合わさり、「夜な夜な空を飛び異教の軍勢を率い、悪魔と乱交を行ういかがわしいカルト」と考えられたとしたら、「農民」からの告発を受けてもおかしくないからである(あえて農民にカッコを付けたのは、これが近代の牧歌的な農民イメージではなく、この「農民」も鍛冶を行い、戦乱に加わる可能性を秘めた農民であることを強調したいからである)。そうでもなければ、疫病や戦乱(たとえばドイツ農民戦争や、三十年戦争)が蔓延するつねに人手不足な時代に、裁判や牢獄への隔離などの手続きをわざわざ行い迫害のデモンストレーションを行う余裕があるのか、疑問に思うのだ。諸侯間、宗教間の戦乱が頻発した時代に、敵対する勢力の兵器などの物資を供給する鉱山師や鍛冶師たちが、「悪魔の手先」として迫害されることは想像に難くないだろう。まだ思いついただけで仮説段階だが、精査して詰めていく価値はありそうである。

 

 いっぽうで、宗教美術や信仰などにも鍛冶の技術が活用されることは往々にしてある。水銀朱は、他の鍛冶技術よりもフランスにみられる聖遺物崇敬では豪壮な金細工を施した聖遺物箱が、イタリアやスペイン、中欧など地中海一帯には聖人の「不朽体」信仰が見られる。後者は特に、真言宗のお土砂加持や馬王堆の水銀に浸された遺体のように、水銀朱の文化との関係をわたしは疑っている。スペインのアルマデン、トスカーナのアミアータやアプアーネ山脈、スロヴェニアのイドリヤ、ベオグラード近郊のアヴァラ山など、辰砂が産出される鉱山が隣接し、ゾシモスやジャービル以降の錬金技術をもつイスラームとの交易や戦乱が絶えなかった地域であることも根拠としたい。中欧・東欧ではのちに「吸血鬼(Ubir,Vampire)」と呼ばれる生ける死体の伝説も噂されたことが関係があるのではないか、と考えてもいる。これらは金細工や装飾で著名なケルト人やトラキア人、スキタイ人などの故地であり、吉田敦彦の研究では日本神話との関係も示唆されている叙事詩群の発生地でもある。

 

 東洋では墳丘墓の時代以降、道教や仏教、神道の伝承に朱が顔を出す。一大ムーブメントとなったのは、秦の始皇帝漢の武帝、唐の皇帝たちの丹薬づくり、そして東大寺の大仏建造である。これらにまつわる従来の研究に共通するのは、水俣病の世界的クローズアップによって強調された「有害性」で、一般化したのは杉山次郎の「大仏建立」で広まった水質汚染鉱毒のイメージだろう。しかし、古代人が、たとえ失敗したとしても、水銀の毒性を放置したままだったとは考えにくい。インドのドラヴィダ系の文化ではアロエなどの薬草をもちい毒性をキリング(無毒化)するシッダ医学が研究されており、その方法論が「大日経」「金剛頂経」などに流入していると佐藤任が指摘している。かくして空海が招来した密教は、以前の渡来系氏族との神仏習合を――百舌鳥や大枝、菅原などの墳丘建築や土器制作を担当していた土師氏や、東大寺大仏造営に貢献した近江の金勝氏・摂津の百済王氏・宇佐の大神(おおが)氏、三輪の賀茂氏や山城の秦氏、吉野の丹生氏など――経て、陀羅尼助丸や伊勢おしろいなどの遺産と、伊太波武助などの東北の鉱山開発などの原動力を近世まで残すこととなった。しかし、黄河流域に展開した中華王朝にとって、辰砂などの採掘地や、こうした無毒化の技術などは、古来より楚などの長江流域とインドとのつながりの上で展開してきたものであるため、入手することは容易ではなかったといわれる(上垣外憲一氏の研究を参照した)。道士徐福が日本に来たという伝承や、魏と卑弥呼の関係というのは、そうした辰砂技術が背景にあったらしい。しかしながら、農耕社会に組み替えられていく中で、鍛冶師や鉱山師が持っていた井戸や泉の発見技術(弁財天などの女神崇拝)などをふくめた都市造営計画、知の体系は、吉野裕子が研究したように陰陽五行説のもとに再編され、祭祀芸能へと姿を変えていった。

 

 その他、「祇園祭」などの商工従事者が担った山車祭礼や、神楽や能、かぶきなどの来訪的な芸能も、金鍍金などの技術の伝播、伝承に役立ったと考えている。

 

 草稿段階で読み苦しい点は重々承知しているが、以下の記事も参照していただきたい。

 

matsunoya.hatenablog.jp

 

 

matsunoya.hatenablog.jp

 

 

matsunoya.hatenablog.jp

 

 以上、仮説的に水銀朱を中心に据えながら、ほかの金銀銅錫鉛や合金などの金属の採掘・鍛冶の全世界的展開を考察してみた。漠然とした「農耕文化」のうえに、工業化消費社会として展開しつつあった近代国民国家のなかで編成された歴史では、神話伝承は牧歌的でエキゾチックな農村の、「おおらかで奔放な」豊饒への願いとして考えられている。とくに道祖神やリンガ・ヨーニ崇拝などは好奇の目にさらされることとなった。しかし私はそこに、シルクロードや地中海、紅海などを往来した人びとの、「錬金術」に通ずる鍛冶師や鉱山師的な知恵と、彼らを取り巻く境界や権力を越えるための祭祀儀礼の存在を――井本英一が比較蒐集したような事例を通じ――見るのである。錬金術や煉丹術、そして神話に共有されている、時に残酷でエロティックな語彙から、その通時性、共時性が見えてくる。さらに植民地支配や語族によるイデオロギーに縛られたローカルな学問群から、グローバルな「新たなオリエント学」がここから見えるのではないか、とひそかに思う次第である。

西洋の水銀朱伝承

 インドや中国に比較して、ヨーロッパの古代・中世における金細工や鍛冶の歴史の追跡は困難である。一応水銀によるアマルガム技術は遅くても紀元2世紀のローマに存在していたといわれてはいる。

 思うにそれは金属加工の技術が「悪魔」と結びついていたこと、ユダヤ人やロマ(ジプシー)などのアウトサイダーとの繋がりなどにより記述されることが好まれなかった経緯があることが予想される(私は鍛冶や採掘を担った人びととして、おもにオリエント系の語彙を織り交ぜたペルシアやトルコ系の人びとや、長江流域から紅海地中海を往来したインド系の人びとがいたのではないかと推理している。同時に傭兵や芸能を担うことにより、かれらの持つシンクレティックな信仰、俗にいう「枢軸宗教」の元になったものやクレオール的な言語は、日本語だけではなくアフリカを含め世界的に影響を及ぼしているのではないだろうか)。

 神話学や民俗学も、「原始的な農耕社会」を中心にモノを見ているため、日本と同様に後世「異教の豊饒の予祝」などと解釈された事例が当然あるだろう(そもそも日本の民俗学自体がドイツの民話学や神話学の影響を多大に受けている)。ゆえに本稿の記述は、鉱山などの位置と、日本や中国、インドの事例を基に類推、予測した仮定にすぎない。取り急ぎ蒐集した成果をまとめているに過ぎないので、乱文となっているのをご容赦願いたい。

 

東欧・中欧……吸血鬼と水銀

 吸血鬼はポルフィリン症患者であるという話がある。ドラキュラのモデルとなったヴラド・ツェペシュポルフィリン症とする篠田達明『モナ・リザ高脂血症だった』(新潮新書)を読み、漠然と納得したまま過ごしていた。しかし吸血鬼伝承というのはブラム・ストーカー以前にも中欧・東欧各地に語り継がれており、ヴラドはモチーフの一つにすぎないのだという。ルーマニアトランシルヴァニアの人間は、吸血鬼目当てで来訪する観光客がさながら「日本にニンジャが今でもいる」と信じている外国人観光客であるかのようにウンザリしながら見ているらしい。しかもヴラド3世は国民的英雄なのだから、「織田信長ニンジャ説」みたいなちぐはぐな感じなのだろう。

 この度平賀英一郎『吸血鬼伝承』(中公新書)を読み、真言宗の土砂加持や、馬王堆などの古代中国の水銀による遺体の保存を連想してしまった。前者は白色の砂であるが(錬金術では賢者の石の白色化が可能であり、また日本でも伊勢おしろいなどの利用例がある)、死者に振りかけると死後硬直がとけぐにゃぐにゃになる。後者は液体の水銀であるが、2000年以上前の遺体を劣化させることなく保存することに成功した。

 人間の血を吸ったり、牛馬を襲い乳の出を悪くするという魔女に似た被害も報告されている。血との結びつきであるが、神武天皇の東征ではエウカシの討伐で血まみれになった「血原」の伝承が大和の水銀産地として著名な宇陀に残されている。また、水銀自体がペルシアでは「龍の血」と見なされてもいる。

 吸血鬼が赤ら顔で、生きているかのように体を動かし、枕もとの土を持ち去られると退治されてしまうといった伝承には、前述のお土砂や古代中国の例のほかに、古墳内の朱(ベンガラもあるが)の散布を思い浮かべる。騎馬民族征服王朝ではないが、吸血鬼伝承のひろがるバルカン半島やロシア周辺には、クルガン文化などのスキタイ文化圏や、金細工で有名なトラキアなどの古代文化も多く、すくなくともイランや中央アジアあたりまではステップやシルクロードを通じた交流があったのではないかと推測される。そこからは中国・朝鮮経由でつながりがあってもおかしくはない。

 世界遺産スロベニア・イドリヤ水銀鉱山やマケドニアのパンガイオンなどの金鉱山もあることから、アマルガムによる金メッキ技術が早くから存在し、その副産物として水銀朱を用いた死者の祭祀が行われていたという仮説を立ててみる。または、安直な合理化かもしれないが、工業的な水銀利用の弊害として、人間や家畜に被害が生まれていた(骨のない奇形の胎児も、吸血鬼に結びつけられている)ことも考えられる。吸血鬼の噂がヨーロッパを席巻しはじめた17世紀から19世紀は、工業化の進展により金細工の調度品の需要が市民まで広がっているはずである。東欧の金の産地や水銀鉱床などでそのひずみが生まれていたのかもしれない。あるいは、この地帯に設けられたペスト防衛線で用いられていたと予想される水銀薬の可能性もある。そしてそれは、ユダヤ人や金細工や鍛冶を生業とするロマ(ジプシー)などの迫害に結びつくこととなったのだろうか。

 

西欧……聖者崇拝と水銀

ドイツ

 魔女や狼男(犬頭人)の存在を通じて、東欧の吸血鬼伝承と非常に近い論点を持っている。ドイツにはオットー王朝からつづく古都ゴスラーを擁するランメルスベルクなどの銀の鉱山があるが、水銀が産出したかどうかは不透明である。いちおう近世にはアグリコラの『デ・メタリカ』で水銀について記されている。パラケルスス先行者の幾分寓意的な錬金術を批判的に摂取し、「硫黄、塩、水銀」を主とした人体錬成を論じた。ユングなどの精神医学にも多大な影響を及ぼし、河合隼雄による日本神話の心理主義的な解釈も試みられている。

 

フランス

 水銀については、二コラ・フラメルなどの錬金術を除けばおそらくルネサンス以降の化学研究にしか出てこず、資料としては僅少である。

 フランスには鉱山がないと思っていたが、かつての火山の跡にル・ピュイ(ラテン語の高山、Podiumに由来)があり、そこには「熱病の石」とよばれる巨石信仰があったりする。メリュジーヌ伝説などという蛇女の崇拝は、たとえば中国の竜女などと比較できるなど、十字軍時代の東西交流をうかがわせる伝承に満ちている。また、古代のドルイド信仰に由来する樹木や聖泉の信仰が点在し、その多くが「聖母マリア」に結びつけられている。一方でヴェズレーにはマグダラのマリア(マリー・マクダレーン)の聖遺物があるとされた寺院があり、サンチャゴ・ラ・コンポステラへの巡礼路の起点となった。

 

 ここで問題となるのが「黒いマリア」をはじめとする教会の装飾である。黒いマリアへの崇敬はスペインや南仏に広がり、南仏トゥールーズでは「El Daurade(黄金の)」と冠され崇敬されている。異教時代のイシスやパラス・アテナへの崇拝が流入した、と考えられていたり、錬金術との関係を論ずる文献もある。

 中世から伝わる代表的な金細工としては、聖人が象られ、金で装飾された聖女フォワ(フィデス)の聖遺物箱があげられる。聖人の伝承地からコンクの町へと盗まれた曰く付きの品物である(盗みが成功すれば、聖人の意志とされ正当化される)。これが金鍍金かはわからないが、当時の口碑ではこの聖女は「金や宝石で身を飾ることを求めた」という。

 

 毘盧遮那仏大日如来)とマリア崇敬の交錯といえば、日本のキリシタンであり、形骸化、歪曲されていることに失望した宣教師もいたとのことだが、もともとこれらの「神格」は、たとえばヘレニズム時代のペルシアやアレクサンドリアでは似たような「女神」崇拝だったのではないだろうか。イスパニアや、マッサリアなどのガリア地域では熱烈なマリア崇敬(そして聖女崇敬)として分化し、シルクロードの摩崖仏などではヴァイローチャナとして表現された。

 

 12世紀ルネサンスの時代、フランスにおける「行基」「弘法大師」ともいえる建築・美術の大立者といえるシュジェール(スゲリウス)は、寺院の改築や装飾を進めた。一転して世紀末に南仏を中心にカタリ派の弾圧や異端審問がおこなわれたのは、交易の要衝として王たちに重視されただけでなく、鍛冶などの悪魔的な技術が危険視されたのではないだろうか。

 

 スペイン・イタリア……採掘地と古代錬金術

 イベリア半島はローマ期から続くアルマデンを擁し、イタリア半島ではトスカーナ地方に水銀鉱山があったらしい。前者はイドリヤと並びハプスブルク家の発展を支えたといわれる。両者ともにイスラームとの交易や戦乱による領地奪回により古典の翻訳活動が活発に行われた地域である。ギリシア錬金術のソシモスや、アラビア錬金術ジャービルなどの翻訳により、「硫黄と水銀」の割合によって好きな金属を錬成する、という典型的な錬金術観が生まれた。

 染織の顔料としても水銀朱は用いられたようである(未確認)。

 気になるのは、中国の偽書的な道教文献で、「ローマ(大秦)」が道士達のユートピアのように描写されていることである。それが「秦」という名前に引っ張られた勝手なイメージにしても。なお、ローマ教皇には金の薬としての服用例もみられる。

 しかしながら、実際的な金細工や鍛冶を担っていたのは、スペイン系のセファルディムユダヤ人ではないだろうか。上の地域とくらべて、水銀鉱山などの証拠はあるが、鍛冶などの実態が分からないので、いずれにもましてアヤフヤである。

 

 錬金術と煉丹術、そして仏教や日本神話の一部には「神秘的な和合」やシャクティ(タントラ)、そして「昇仙(ときに白鳥などへの変化がともなう)」などのよく似たイメージが存在する。さらに、各地域の神話に観られるさまざまな類型などをつらつら見るに、交易圏を行き来した「説話」の断片、具体的にそれは「鉱石採掘や鍛冶技術の伝承」がふくまれているように感じるのである。従来これらはおもに農耕の予祝や人間の家畜支配などを説明すると考えられてきた。もちろん、そういう農耕的な発想が採掘や鍛冶に適用されたと考えることができるが、むしろ逆に、狩猟や採掘といった遊牧から、定住農耕社会へのローカライズされた知識が生まれた、とも解することができると思う。そしてそれは、「死と再生」(呪い殺すことと金属の毒性の「無毒化(キリング)」、そして薬効による長寿延命と再生が、季節の再生と同一視されたのだろう)を通じた祭祀芸能の発達や、王や聖職者の権力基盤、そしてノマドとなった鍛冶師や鉱山師の「特権」とも結びつくものであった。これらの中心に水銀朱と金を置くことができるのではないか。