マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

言語文化と想起

 書物文化、およびインターネット社会は、「書く」、および「読む」という行為を食事や排泄と同じくらい欠かせない反射的で、感覚的な行為として完成させた。しかも、それらは思考する「精神」の営為として理解される。民族や国家、あるいは民衆といったカテゴリーに属して、自発的に行動する人間の表現の発露。おそらくこの事実について疑問をさしはさむ人間はいない――いないからこそ問題なのだ。

 

 「書く」「読む」という行為を社会的に何かを「伝える」営為とするとき、なぜその事象を日常生活のなかで「想起する」、または「表象する」のかという問いに置き換えると、「書く」「読む」行為はたちまちその反射性、感覚性を除かねばならない。

 現代のコミュニケーションは「持続的に残す」という発想に欠けている。

 もしかしたらそれは、多くの血をながすこととなった、民族精神や国家精神、民衆のルサンチマンといった歴史の原動力への反省、あるいは言語文化そのものを衝動的な金融システムや資本主義的マーケティングの婢とするという時代精神なのかもしれない。落ち目の出版業界や映画業界が目先の出版部数や興行動員数に気をとられ、何らの革新的議論をも生まないお人形遊びに興じていることからも明らかであろう。

 知の基盤たるべき大学や学術機関に前世紀の大衆化のメリットが反映されず、「反差別」を錦の御旗に主役と悪役をとっかえひっかえした議論に終始するさまも滑稽である。情報共有の高速化と拡大に、ただ情報を大量に「消費する」といったリアクションしか取れていない現代の人間の悲劇である。

 自然災害を何度も経験しながらも、その場の物語、道徳的美談にしか耳目が惹きつけられない、国家的プロジェクトが責任者の利益誘導や不道徳性で沈滞し、もはや歓迎されない。「日本スゴイ」と散々持ち上げるのも、「日本の衰退」と憂うのも部数や視聴率次第。情報がいかに大容量で、高速に通信できるようになっても、安易な二分法と二極化した評論が国民・民族・市民・民衆・庶民といった様々なバイアスのかかった「精神」から吐き出されるだけで、それらをいかに高速で出したり引っ込めたりするかという歪んだリテラシーが求められる。

 

 すくなくとも、古代や中世の『人文学』は、近現代のこうした堕落した読み書きのコンテクストから離脱しなければならない。

 文字資料だけではなく、近現代的価値観では「読み書きできない」とされる人間の神話伝承・図像学儀礼祭祀は、持続的な「読み書き」によって運用されてきた、といえる。それらは、近代的な知識人が考えている識字的主体、国民・民族・市民・民衆・庶民云々とは別箇の、協働的な日常の生とのかかわりとしてのリテラシーなのである。文字を「読み書き」するのではなく、自分たちの生を「延べる(持続する)」ために「よみかき」する。

 そのために遺されてきたテクストは、その古さのために全面的に信用される、というような魔術的・呪術的な効能をも認められる。しかしながら、それは現代的な「貨幣」や「金融」が数学的な考え方で理論化し、予測し、何とか維持している中長期的「信用」の、いわばプロトタイプ的な姿なのである。

 言語の基礎に詩歌が存在するのは、その形式が身体的な動作を規範化して、協働的な社会的行為を行わせるメディアであり、なおかつその内容が何ものかの生や社会的行為を受け皿(メタファー)にしてものを教え、考えるという目的に適するからである。

 

 そしてそれは、道具の使用――外界の自然(風土や四季、そして他者)にいかに順応するかという生の持続に、きわめて痛切に連関しているものであった。「生を延べる」ために、道具の持続的使用には、「権威」的な信用が不可欠となったのである。道具自体にも、外界を「よみ」、王や貴顕とのつながりを示すシンボルを「かく」ことが必要であった。繰り返す一年のうちに、農作業や鍛冶、牧畜に極めて重要な春夏秋冬の訪れとともに記念し、想起することもまた求められた。物語を「よみかき」するということは、かくして知を持続的に連関させ、記銘する「技術」であったのである(むろん、今も学者や政治家に求められている技能であることは言うまでもないが)。

 

 現代大衆文化の「記憶」は、古代や中世の神話や説話から多くのイメージを借用している。しかし、はたして人びとは持続的に「記銘する」技術をそこから学び取ることができるのか、それは時の流れが(残酷にも)証明することになるであろう。

複製情報時代の情報(複製芸術時代の芸術、ならぬ)

 以前、といってもずっと前だが、このブログにて「学融機関」というアイデアを扱ったことがある。文化をSDGsなどに絡めてPRし、現在への投資に活かしたり、遠隔地の文化財や行事などのサービスを取りまとめて、観光や地域振興に活かす拠点として、「大学」や「美術館、博物館」などがより自らのもつ文化的な情報の取り扱いに先鋭的になるべきだとする論だったように記憶している。

 

 私のスタンスは、コロナ禍の前のこの無邪気な空想からは全く変わっていない。いな、むしろこのアイデアにこそ、新時代の情報産業の要が存在するように考えられる。

 

 アメリカのGAFAをはじめとするビッグデータ産業、および中国の情報産業を鑑みるに、彼らのやっていることは前世紀のデトロイトがガソリンを大量に消費し、大量生産体制を敷いて自動車を普及させたような手法を、情報やソーシャルネットワークサービスに対しても用いているのである。この物量戦はなるほど情報化産業の普及しはじめの時期に優位に立つには有効である(だからこそ倹約自粛一辺倒の日本は戦争や感染対策で国力を削られるし、グローバル・スタンダード作りに後れをとることとなる)。

 

 しかしながら、「コモディティ化」とでも言うのだろうか、目新しいサービスが出尽くし、あるいは石油のような資源が枯渇する局面となると、「物量戦」ではなく「集積戦」、コンパクト化へと舵を切らねばならなくなる。スパコンやAIは莫大なデータを参照し成果をあげるが、データの集積元および集積先を考える人間の「発想」が洗練されていなければ、単なる遊びにしかならない。

 

 また、アメリカが常にゲリラ活動やテロに苦しめられたように、普及してしまったインターネット社会は、フェイクニュースやファスト動画など、金銭的・政治的損害を一気に拡散させるような問題への対処に非常に脆弱であると言わざるを得ない。かといって、早急な規制を乱立させて混乱させるような小手先のテクニックや、あるいは中国のように人海戦術や遮断を駆使して徹底管理するという手法も、長期的に持続できるものではないと見られる。

 

 日本のいわゆるクール・ジャパンは、瞬間風速的なマンガ・アニメ・ゲーム文化を官僚たちが利権のおもちゃに(そしてオタク公務員たちの遊び場に)したに過ぎない政策であった(同じことが観光におけるGotoなんちゃらにも言える)。高齢者や若年層のデジタル・デバイドも、悲しむべきか、(Windows95の時代から)まったく改善する気配もなく再生産されつつある。政府が紙幣をばらまけばばらまくほど、紙幣の価値が暴落することは目に見えている。先陣を切るべきは、民間企業と既存の学術機関の有志の連携なのである。失われていく文化を集積し、かつ誰もが利用できるような共有財産として提供する「学融機関」が、コロナの焼け跡から生み出される、新時代の集積回路となるべきなのである。

 

 別に愛国的精神、そして道徳的精神を鼓吹するわけではないが、茶道や禅など、その他の芸術をこれまで維持してきたシステムは、この次代の複製情報時代のヒントとなるといえる。彼らは、先人たちの事績を顕彰し、数々の逸話を師から弟子へと伝えることによって、あるいは用いる道具に「好み物」として刻み込むことによって、自らの存在意義を高め、また審美眼としての情報の自主的な取捨選択を行うことができた。

 

 こうして「道」を究めるということは、社会に所属し、かつ距離を置くという不即不離・守破離の考え方の涵養につながる。現代人の情報依存に欠如しているのは、まさにこの根幹である。

 

 誰かが言っていたからそれを軽々しく他人に勧め、またフェイクとして批難するような受動的態度は、ファシズムを口では否定していても、ファシスト的な行動・暴力につながる。前時代の岡倉天心鈴木大拙が見出した東洋的美意識・価値観は、それ単体としては評価すべきものではあろうが、こうした近代的価値観のスラックティビズムやスノビズムに飲み込まれることによって精神主義のおぞましい幻影と化した。近代知識人が東洋的美として芸道を無批判に受け入れ、墨守し、衰退させた罪科は拭い去ることはできないだろう。

 

 さらに、現代の情報拡散の高速化・情報受容の二極化が招くのは、「エコーチェンバー」のような集団狂気の増幅現象である。学術機関のアカデミズムすら、この類の増幅現象とは無縁とは言い切れない。60年代安保を薄めたスープのような、昨今の「政治家対われわれ」運動の数々は、結局薄型テレビの薄っぺらい街頭インタビューやコメンテーター止まりで、実際に政治を動かすようなジェネラリスト的視点に欠けている。

 

 ストア的な「隠れて生きる」ではないが、ひとりひとりが不即不離・守破離の考えでモノを言う人間とならねばならない。個人のやりたいことを尊重する教育とうたいながら、画一的な就職活動で選別し、あるいは何らかの障害と決めつけて社会から疎外するようなちぐはぐなムラ社会となってしまった現代日本は、情報化社会以前に、ただただ人とモノの浪費となってしまった。そんな中で、欧米のジェネラリスト的エリートが読んでいる教養の本や美術鑑賞について滔々と説いても、瞬間的な利益には結びつくが、ブックオフの棚にかさばるのがとどのつまりである。

 

 本筋にもどそう。今後の情報化産業に必要なのは、こすい個人情報の大量収集でなく、「いま自分はここで何何をしている、なぜか」という個人の柔軟な歴史的・社会的再定位に役立つ「信用ある」情報の集積である。そのためには、今ある古典籍や文化を縦横無尽にかき集め、すぐマインドマップでむすびつくような状態にしておかなければならない。そうしたインフラ作りを以前に夢想したので、どうぞご笑覧願いたい。

 

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言語文化と信用:劇的な学問

人文学は、言語とその信用の歴史に向き合わなければならない。

 

「考える」という事象は、ともかくも「信用」を中心にした紐帯――言語が通用するところの共同体をふくめた連関――を基盤としている。学問はその連関の精髄であるが、むしろ精髄であるがゆえに、多くの事例を捨象し、あるいは見落としている。

 

 言語は、「存在」の表象のうちに、ある種の「価値判断」をひそませる。この性質が、言語が維持する/されるべき共同体にとっていかなる作用をはたらくか。すくなくとも、「現実性(reality)」なる観点には、単なる存在・非存在の客観から遊離した、倫理的または論理的整合性「ことわり」を見て取ることができる。すなわち、因果として対処されるような時間的前後関係を、「ある」のうちに解釈せずにはいられないのだ。なぜかといえば、そう「把握する」こと自体が、共同体上の自己という現象を規範づける(身を「たてる」)、「信用」の一体系のうちに組み込まれてしまっているからである。

 

 道具を作り、使う――それにより自己と他者を境界付け、維持する――あらゆる名称化された営みの基本であると思う。そのために、比較・比喩などの修辞もまた必要とされる。かくして、自己から他者、他者から自己という方向性をさだめて初めてことわりが生み出される。修辞の整合性は、この方向性、「贈与」への評価としてはじめて表現されうる。

 思うに、信用は「道具使用による周囲への干渉」を基にして生まれた。文化(Culture)が耕作(Cultivation)から分岐したように、モノを生産し、通用させ、消費することを企図する、あるプランの拡がりがことばの母胎、信用となる。

 このプランとは、「聖性」を意図している。道具の使用がもたらすある見通し、結果が膨れ上がった結果、その無限性・不可能性を一挙に乗り越える責任者を要する。道具使用-身体の延長という画期的発明が、「いま-ここ」の認知を、より空間的に、より時間的に長大なスパンへと拡大していく。「自己/他者」の区切り、および現象としての価値措定が行われることで、説話はたんなる「ある所」の漠然とした集まりから、数量的な比較や修辞的な比喩をふくめた順序性が与えられる。

 

 そしてそれを正しく認識できる人間が、その属するところの共同体において「信用がある」と見なされ、また自らそのようにふるまうこととなる。階級意識や社会的差別をふくめたモラルを、シンボル的な思考をもとに順序だて、垂直的なヒエラルキーを作り出すのだ。経済や金融における「信用」は、まさしく数値的な比較と修辞的な比喩をラディカルに用いた言語文化であるといえる。その基本的な祖型は、共同体の「協業」のために展開された、詩と劇の世界――順序性の理解(因果的思考)を表象するということに端的に体系化されている原理であるのだ。

 

 道具を作り、使うことは、自己同一性、そして因果関係のよりラディカルな形態、つまり「死と再生」にまつわる技術と文化に直結し、モノとコトとの特殊な連関(呪術や民俗)をはぐくむこととなる。なおかつそれは、古代や中世においては、「聖性」なる価値を人びとに供給することとなった。比較や比喩の極致として、あらゆる共同体の「長」を凌駕し、生まれ、滅し、再生する他者である。ある時はトリックスターとして、共同体の構造を模倣し、暴き、知らしめる存在となるであろう。

 

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 近代はその「聖性」を、「希少な」存在と巧みに読み替え、多くの人間にそのコピー(言うなればステレオタイプ)を分配することにともかくも成功した。なかには陳腐化してしまったものも、役にたたず忘却されゆくものもままある。根底には印刷文化が、図像の氾濫、混沌が存在し、それゆえに「単一化」への強い希求がまた生まれた。言語的な信用は、やがて西欧的な民主主義政治と貨幣のシステム、そして近代科学による強い権威性を、「市民」のイメージとともに人びとへ刷り込んでいった。

 つまるところ「聖性≠希少性」は、規範と服従という意識を生み出した。信用ある人間として、他者の死と再生に関与する、これが自己のみならず、共同体の自己同一性の維持に不可欠であることを、無意識のうちに受容してきたのである。言語文化にかかった一種の抑圧・抑制は、学問それ自体の不自由さの結晶である、「モラリスト的な意識」「アカデミズム」に端的に現れる。「信用」それ自体を学問的に問うことをせず、「信用ある人間として」ふるまおうとする意識が、知全体の不明瞭さと、その場しのぎの言説への撞着、そして過度な精神性への賛美を根付かせ、文化の荒廃に余殃をもたらすのである。

 

 「表現し、顕示する」ことは、空間性と時間性を併せ持つ。すなわちそれはたんなる生命維持……死の恐怖から偶然・無意識的に逃れるための「衣食住」ではなく、死を克服し、再生を企図する技術としての「呪術」が、根底に存する。すなわち、ある道具、ある作用による「量化」は、表現・顕示されることによって、権力や信仰といった質としての「共同=協働」へと飛躍しうる。近代的な社会科学(特に民俗学)は、農業を第一として共同=協働を見てきたわけであるが、農業じたいがさまざまな職能集団による協業によって実現してきたことを改めて注意しなければならない。

 

 農耕の儀礼として、人文科学の前に虚構化されたもの。そこには、農耕文化を維持するためのシステム、天文や測地、あるいは金属器や土器をつくる技術が介在したはずである。いや、むしろ農耕文化こそが、道具をあやつる技術を支える食糧補給体制として、人体とその機能的延長である道具使用を維持してきたのだ。

 

 そうした技術の総体は、工匠たちにとっては通過儀礼的に、経験して獲得するものであった。原初の神話、詩や物語は、こうした経験的な知を次世代に語り継いでいくためのシステムであった。ここに、祭祀儀礼をめぐる二重化の構造を見て取ることができる。従来のエリート対民衆や、民族対国家の歴史観は、再考を要すべきものである。

 

「工匠文化」について

 

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 ジョルジュ・デュメジルがいうところの印欧語族の社会の三階層というものは、言語が共有される三つの次元・境界を作り出すことによる、社会的「信用」のあらわれである。それが端的に現れたのが詩であって、勇ましい叙事詩、慎ましく勤勉な農事詩、エロティックで予言的な牧歌というウェルギリウスの三つの詩や、あるいは詩経や楚辞、そして本邦の和歌などに見て取れるアイディアだと思う。


 神話的な文学や美術においてそれが特に重視されるのは、教養や言語それ自体として、社会的に広域かつ後世まで伝達しなければならない情報のパターンがこの三つに集約されてきたのだからだろう。文字の存在いかんにかかわらず、言語として表現可能な空間と時間の表現手段は、「命名」の煩雑さを避けるがために、おのずと簡潔な擬人化や比喩のバリエーションに依存する。これによって(たんに「存在する」のみではない、)「人称」によるさまざまな表現が可能になるのであるが、多くの言語では意志・命令・推量の三つに逢着する。これは古文の「む・べし」や英語の「助動詞」、ラテン語ロマンス語の「接続法」の主な用法であるだけでなく、詩の三カテゴリーにおいて表現される内容――戦乱の栄誉や死の根源(意志)、時季を択んで行わねばならぬ所作(命令)、そして繊細な空想と社会的転変の暗示(推量)に合致する。


 先述したデュメジルのカテゴリーは、単に社会的な身分としての祭司・戦士・農民だけでなく、この人称的な意志・命令・推量を神話的人格になぞらえたものと考えることもできるだろう。


 その点で、人間が古くから伝達に躍起になってきた「技術(道具使用)」は、その起源譚から習得、熟練まで、一つひとつの道具や挙動を言語化し、理由付けする困難さを要するように思われる。しかしながら、機械化や識字教育以前の前近代では、「物語」や「劇」、「儀礼」による絶え間ない反復によって、身体的に「記憶」し、ある意味では身体と社会制度や信仰、技術が「未分化」な状態を維持してきた。これらがきっぱりと分化し、あるものは科学、またあるものは政治、あるいは病気や迷信といった忌むべきものとなったのは、近代的な市民的な意識下においてにすぎない。


 たんなる「口碑」が、一社会の生活様式まで拘束する社会的信念、規範になってしまう現象は、徒に民俗学歴史学の関心を惹くばかりではない。こうした言語文化のもたらす「信用」は政治経済に直結する課題である。

 

○古代的な詩の形態……協業的な労働歌と呪歌⇒叙事詩・悲劇

○中世的な物語……空間と時間の拡がり(恋愛、欲望)⇒権力の重層化と多元化、倫理

 ●方言と俗語の伸長、コミュニティの動乱・規範


 貴族的な古典教養文化(西欧的には人文主義)は、近代において徐々にその活力を失い、実用的な自然科学にとって代わられた。しかし、前近代の詩や和歌において顕著だった観方のように、「迷信深く柔弱」であったから衰退したわけではない。「言語文化の未分化状態」において効力を発揮してきた教養に対する社会的信用が、高度に「精神的」な美や歴史的な芸術として純化・合理化されてきた結果、細分化され、傍流の自然科学に排斥されるほどにコミュニティの信用や影響力を縮小してしまったのだ。


 貴族的な古典教養文化、人文主義には、文字化される以前の人びとの原動力・モチベーションとなってきた前史が存在する。「物質民俗」はその解答の一つであり、詩や物語のもともとの社会的役割――労働歌やシャリヴァリといったものに密接に関連するものといえる。農耕文化は、鍛冶や窯業、狩猟や漁業にならぶ道具使用の一形態にすぎない。古代社会においては、これらを身体的な比喩、擬人化によってとりまとめ、詩歌や舞踊によって「再生」することこそが、社会的に尊敬される、異能や権威の源であったことは間違いない。こうしたシャマニズムが、音頭取りを要する軍隊や鍛冶、そして農業の有力貴族によって牽引され、「民俗」として維持されてきた。もちろん、現代のゴミだらけの消費社会の代替物たる、「闘争(戦争)」による物質的破壊が伴ったことは言うまでもない。


 この物質的崩壊こそが、「口碑」「儀礼」の根源であり、より直截的にいうならば、「死と再生」の信仰と不可分のものであったことは、数多くの文化的共同体の基体として重層的な「死と再生」が意識されていることによって証される。祖霊の死は、はなはだ逆説的ではあるが、子孫としての再生として暗示されるのだ。風水や古墳ばかりでなく、西欧的な教会にいたるまで、家や墓は「母胎」のイメージから分化する。泉による取水や採鉱などの必要から山や洞穴を選んだ実用的側面も確かにある。だが、「炉=火処」の存在が、連想の決定的な決め手となる。


 そして、物質的崩壊の中心から周縁(境界)にかけて、男性的陽根崇拝としての石造物や建築が築かれることにより、一種の「再生」が意識されることとなる。河原や坂、もしくは「厠」という表象は、特殊な土木治水技術を要する都市の末端として、またケガレの漂着点、あるいは次なる再生の生産拠点となる。


 工匠たちは、文字という手段を持つ持たないにかかわらず、図像や記号によって(そもそも文字自体が特定の音と結びついた図像の特殊な事例であるが)「死と再生」を多彩に表現してきた。必然的に、詩歌にも物質的な生産と破壊が言及され、さまざまなコードがスキーマやメタファーの形で標示されることとなる。死んだ人間、消滅した事物が「模倣」され、現在に「介入」する。その起点が道具使用、身体の延長としての技術なのだ。

 ここに賦活(Motivating)の哲学が成立する。

 

公共の言語と詩の言語――連用的世界観と連体的世界観(命名
 スキーマとしての人体・天空・地理
道具使用と文化
劇が儀礼となるとき

 

■「唯劇論」
 ○テーマ、生と死のあいだに
 ○他者の修辞学:信仰
  詩のカテゴリーとその攪乱……恋愛詩と戦乱・政治
  「法」の三分イデオロギー(意志・命令・推量)
 ○トリックスターの表象/投影される権力の起源
 ○区切りとしての起源譚/引用しあう説話群
  アレクサンドロス大王と説話群の攪乱
  オリエント・ヘレニズム・インド・シルクロード
 ○公共圏、精神、文学の「かたり」と看過される「境域」
  マクロな歴史とミクロな歴史


■古墳と古代中世技術史
●土木治水にたいする人びとの畏怖:「石神」論
 ○境界(さか)と鬼、悪魔
 ○神仙思想・陰陽五行の影響
  牛頭天王と宿曜(藤原氏と御霊崇拝)
  ケルヌンノス:医薬神と行疫神・境界侵犯⇒ミトラス
  黄道十二宮・月宿・十二支
  要衝としての播磨・周縁としての明石


●技術継承の場と巡礼・秘儀
 ○猿楽・狂言と中世神話
 ○闘争と祝祭
 ◎竈神と厠神

  ヴェーダやアヴェスター時代の火や水の管理、金や水銀朱の採掘

  手燭・灯籠などの「火」、聖泉・庭園などの「水」の循環⇒炉や厠の脱神話化

「感覚的」な身体の延長としての道具使用・器物が、権威・信仰上の「見せる」顕示作用に……同時に、生産者・消費者のヒエラルキーの形成、「死と再生」が、衣食住の選好基準となる

  確からしさ・信用による社会秩序・倫理の精神的理想化
  東西錬金術と「炉」
  香炉と立花
  茶道の源流としての再生信仰(偽史についての示唆)
   北斗七星と鳳凰……天皇的イメージの濫用による「遊芸」確立

   秀吉(菊桐・瓢箪・稲荷と天神)……「つぼつぼ(土器)」と「梅花」、千家による「代理表象」
 ○天文学と冶金文化……盲目と邪視
 ○聖域と祝祭……日常の淵源としての生の浪費
  源平藤橘貴種流離譚、やつし的発想)と親方ジャック(ケルトおよびローマ文化のキリスト教化)
   源氏と「八幡宮」「南宮大社」、平家と「妙見」「北辰」
   藤原氏と「田原藤太」、橘氏と「金売り吉次」
   景清・景正・景政考
   菅原氏・紀氏・惟喬親王木地師塗師)……「太子信仰」紀氏と大師
    和泉式部橘諸兄在原業平
   能と貴族:日本の中世劇
   フリーメイソンと聖人崇拝:ヨーロッパの中世劇
  詩における欲望の表象と巫覡……興
   人称と印欧語族三分イデオロギー
  軍記語りと穀霊

  百人一首というシンボル

  キリスト教的サイクルと年中行事(間接的な太陽信仰)
  半月・半年ごとに繰り返すこよみ(陰陽五行)
  冬至夏至春分秋分:地上の方角をふくめて
  上社・下社の対応(附・山アテ、堪輿
  十字表象・六角と八角……死と再生
 ○煉獄にかんする一考察……後景の鍛冶神・硫黄
 ○技術の維持のための信仰・占術・呪術


●冶金伝承
 ○前史としての風神・雷神崇拝(大汝)
 ○スキタイ文化と神宝
 ○石…凝灰岩と花崗岩
 ○水銀朱とアマルガム(鉛丹・弁柄をふくむ)
 ○ブロンズ(錫)
 ○鉄(チタン・マンガン・ニッケル)
 ○金・銀(大仏建立前後・石山寺

 

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言語表象文化――「たてる」哲学

 歴史や言語は、「国家や民族、あるいはそれらに類した社会集団固有のもの」であるという、素朴な認識がある。

 

 高等教育や専門的議論においても、もっと言うならおよそ言語を用いて社会活動を送る人間は、この「無意識の壁」によって守られながら、論理的に思考している。孤立的な選民主義は言うに及ばず、手垢のついたグローバリズム、「異文化」への相互理解であっても、この手の縄張り意識なしでは成立しえないだろう。

 

 ところが、こうした認識への越境――人間の考えには一定の類型があったり、語源をたどれば同一性を実証できる――をくわだて、主張するものがいる。

 

 はっきり言えば、この手の侵略的空想は、前世紀の国境線――植民地支配や民族紛争とは不可分であった。しかも決して根拠なき妄想などではなく、文明崇拝、進歩主義によって、まるで人類の「成長過程」のように人類を、また民族、国民をカテゴライズする怜悧な政治活動であった。

 

 現代の人文学研究、あるいは教育は、一見これらの批判のうえに生まれ、冷笑しているように見える。大衆文化にどっぷりと浸かった知識人は、ナショナリズム的教養から断絶をうたい、経済知識と社会的常識がすべてであるかのようにふるまう。しかしながら、彼らは歴史や言語にたいする基本構想には、近代の知識人以上に鈍感なのである。

 

 まさに機械的に――各種娯楽やマスメディアによってイメージは歪み、人工知能や機械認識によって差別的構造は記憶され、分断されていく。管理社会のなかで、食欲や購買欲、嗜癖をもとにつながりながら、自らの属する縄張り内のほんの狭い、ほの暗い知識の一区画を所有し、それに満足しながら生を終えるのだ。道具によって仕切られながら生きること、それは永遠に続く生などではなく、緩慢な死である。

 

 道具に「使われる」人間――それは現代社会固有の笑話のようであるが、道具を器官の延長として、あるいは「メタファー」として用いるようになってからの宿痾なのではないか。道具を使用するということは、簡単な訓練を施せばサルにもできる――それは、我われの構想する「道具」が、研究所内の環境や、人間とサルに共通する手指の構造や歩行を前提として考えられているからである――しかし、人間と同じように、道具を長期間、理由をもって使用「し続ける」かは、(研究者の科研費獲得が順調に進まないかぎりは)明らかにならないだろう。サルの用いた道具に「意味をもたせた」のは人間である。これはすなわち、人間が「道具を用いたサル」を道具として、「人間がサルに道具を用いさせた」という目的を達成したにすぎない(これは幼児の言語獲得と同じトリックであるともいえる)。さらにサルを研究する人間も、研究所の存続や、研究上の栄誉という「意味」を追い求めて、いわば自己をより大きな、しばし擬人化された他者の目的のために、みずからを道具化しているのだ。

 

 道具と自己という関係は、知識と自己だったり、あるいは「歴史・言語」と自己との関係ともいえる。みずからの生きる「空間」を拡張して、親密かそうでないか、順序づけることは、「時間」への意識へと(隠喩的に)つながる。そして、その推論をもとに、みずからの属する社会への「信頼」――信用を形作っていく。その信用の依り代がどこにあるかによって、人間はいとも簡単に外界の事象を擬人化できるし、みずからを道具化(非-人間化)することもできる。

 

 翻って考えれば、哲学は、「ある」または「なる」という道具的な在り方に特化した学問なのである。しかしながら、言語に依拠し「かたる」かぎり、純粋な「道具」として語り伝えることはできない。そのため、道具的な在り方を探究しつつも、そこから人間的な在り方を模索してきたともいえる。哲学が脱却を試みた神話的世界観ですら、悠久の昔からつづく自然を擬人化し、対して今を生きる人間を道具化しながら、神が分け与える生を賛美してきたのだから。道具があり、そしてどこかにそれを用いる人間を「たて」、仮定しなければ、歴史や言語はなりたちえない。それが、「国家や民族、あるいはそれらに類した社会集団固有のもの」という、さも当たり前の認識によってもはや疑われなかったとき、非合理で不自由な学問と生の乖離がすすむこととなる。

 

 説話や美術、その他文化が機能してきたすべての事物――表象は、けっして虚構や人間の想像力という詐欺的な語彙より生じたものではない。社会を成り立たしめてきた技術と道具がつねにまとわりつく。それらを無視し、ただ一人の天才やすぐれた技能集団特有の創意と考えることは、学問における視界を狭める。そう信じ込むことは、「信用」自体を考えることから逃避させるし、「道具を用い生命を維持する」「知識を用い分析する」「歴史・言語を用い壁を築く」人間を省みる機会すら奪う執着をひきおこすだろう。ひいてはそれは、道具に使われ生き延びさせられ、知識に分断され、歴史・言語にみずからの生を引き裂かれる、過去の人間の過ちを延々と学ばず繰り返すことにつながる。

ゴッドファーザーの失敗

ゴッドファーザーPart3を初めて観た。

 

Part1とPart2はだいぶ昔に観たことがあったが、Part3は初見だ。駄作という評判を前々から聞いていたので、蛇足な作品とばかり思っていた。が、今回BSで一挙放送されていたのを観て(Part1は見逃したし、Part3は前半見忘れたが)、世間の評判ほど当てにならぬものはないとつくづく考えさせられた。

逆張りの癖に偏見でものを見るので食わず嫌いが多い。「車輪の再発明」かもしれないが、雑感をつらつら書き連ねたいと思う。

 

アメリカ映画は基本的にビジネスであり、万人受けするよう味付けされ、練り上げられた「新しい神話」である。そして映画批評や賞の受容も、瞬間的な興業成績や成り行きで決まってしまうものだ。ところが、制作者側は戦前のヨーロッパで発展した映画理論や、シェイクスピアギリシア古典演劇から受け継がれるストーリーライティングと演技を土台として物語を紡ごうとしている。

その情報の非対称性を、日本の映画界はどれほど認識しているだろうか?だからこそ、「全米が泣いた」とかいうキャッチコピー、宣伝がまかり通る。

 

もう一つ、特筆すべきは、プロパガンダの道具として利用されてきた映画が、アメリカの謳う自由と平等、個人主義を表現するときに生まれる「ズレ」だ。たいがい、その帰結は、目的を達成するためには手段を選ばない暴力映画や、目的と手段を取り違えた快楽を見せつけるポルノになる。問題なのは、映画がプロパガンダ性をまだ喪失しないままエンターテイメントとして享受されるこの軋み、ストーリーとキャラクターに与えた影響が、そのまま映画史となる点である。写実的に描き、CGで精巧に具体化することだけがハリウッド映画でない。アメリカから見た「理解できない他者」をアメリカ流に表現(模倣)する、その再生産の過程が、映画の筋書きじたいを拘束している。

 

前置きが長くなった。ゴッドファーザーはイタリア系アメリカ人のステレオタイプを決定づけた作品であるが、おそらく主人公マイケル・コルレオーネはもっとも非マフィア的である。「家業」から離れ、大学で学び海軍で軍功を挙げた英雄マイケルは、病に倒れた父ヴィトを守りたい一心でファミリーを率い、また恋人ケイとの約束を果たすため組織の合法化に腐心する。しかしながら彼が歩むのは、ある意味マフィアらしい、血で血を洗う終わらない抗争と、信頼していた家族を失う修羅の道である。Part2ではファミリーを作り上げるヴィトの姿が対照的に描かれ、Part3では自身の精神的・肉体的な消耗に抗いつづけ、ついにはキリスト教にすがるマイケルの弱々しい姿がクローズアップされるが、基本的なテーマは一貫している。「模倣」である。

 

Part3は、ソフィア・コッポラの演技がたとえまずくても、この「模倣」の終演のためにやはり必要なのである。

 

マイケルは徹頭徹尾父を模倣しようとする。ゴッドファーザーに「成りすます」が、基本的な考え方がアメリカ的であるため、シチリア人たちを統率することに欠けている。彼にとっての「ファミリー」は血縁的な繋がりでしかないし、「ビジネス」は上っ面の契約でしかない。孤独のなかアメリカへ渡ったヴィトが地縁に生かされ、同郷人に義理堅いシチリア任侠として生涯を終えたのに対して、恋人との約束とか息子や娘の幸せ「だけ」を願うマイケルは、それゆえに兄や腹心の離反、妻の中絶、娘と甥の道ならぬ恋などの「裏切り」に遭ってしまう。その結果、裏切らない「ルーツ」、敬虔なシチリア人としての振る舞いにのめりこんでいく。これがますます孤独な死を招くことは悲劇としかいいようがない。

 

 

ん?これはどこかで見た構図だ。「市民ケーン」である。

新聞王ケーンは偶然家に転がり込んだ大金で失われた「子ども時代」「家族愛」を取り戻そうと、新聞社、美術コレクション、悪友、愛人をソリ「バラのつぼみ」号代わりにして遊び回った。彼が大きな子どものままだったために、どれも完成しないまま壊され、もとの孤独のまま生涯を終えてしまったのであるが。

 

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ケーンにとっての「ローズ・バッド」は、マイケルにとっての「シチリア」である。家族を喪ったヴィトにとって復讐の手段にすぎなかったシチリアは、マイケルにとって宿命的なルーツとなってしまい、多くの家族を喪うことになる。ケーンが子どものまま大人になってしまった男であり、マイケルはシチリア人になりきれなかったアメリカ人だ。

シチリア人のみならず、Part2の黒幕・ハイマン・ロスが、たとえ逃亡の口実といえイスラエルに帰還することを望んでいたことや、革命のために手榴弾で自爆するキューバのゲリラ、そしてマイケルが海軍に志願する動機となった真珠湾攻撃、ペンタンジェリが組織づくり、そして自身の死の手本としたローマ帝国など、「故郷への忠誠」はゴッドファーザーの中にさまざまに(さりげなく)描かれている。その多くはマイケルにとって排除すべき障害なのだが、同時に自分のルーツを表面的にしかなぞれないマイケルのぎこちなさ、悲哀を浮き彫りにする。「シチリア人の家族愛」について父を手本にしようとしながら、結果的に妻や妹に暴力をふるい束縛しようとするし、敬虔な兄を殺したことで幻影を追うようにキリスト教にのめり込む痛々しい姿が最たるものといえよう。

市民ケーンもそうだが、実在のモデル関連で物議を醸す作品は、その話題性が先行して内容が吟味されることがない。むしろ、「権力者」や「犯罪」といった自由平等と程遠いはずの他者を通じて、アメリカ社会を穿ちすぎている事実から目を背けているかのようである。二度の大戦で急成長したアメリカの「権力」と「犯罪」が、ルーツの「再認」によって嫌が応にも表現せざるを得ない。

つまるところ、古典的な劇の手法、オイディプスオデュッセウスのしがらみから映画は逃れられていないのだ。

 

いやあ、映画っていいものですねえ。似たことを指摘している方がおられたらご一報ください。

 

 

 

 

余談

ゴッドファーザーを手本にした仁義なき戦いが、エロと暴力を詰め込みながら、アメリカとは少し違った「下っ端の切り捨て」という日本の悪弊を活写しているのは、まことに因果なものと言わざるをえない。

Let It Be偏向的総論:Can You Dig It?

 まさかの半年ぶりの続編。

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Let It Beというアルバムを、私はあんまり聴いてこなかった。コンセプトが適当で自然消滅したゲット・バック・セッションを、フィル・スペクターという変態プロデューサーがド派手なオーケストラでアレンジして、ポールの怒りを買い解散の元凶となった。

そういう経緯を「ジェフ・エメリック自伝」とか「コンプリート・セッション」でよく知っていたから、個人的にはこのアルバムを聴くよりは「マジカル・ミステリー・ツアー」を100回聴きたいし、「イエロー・サブマリン(ソングトラックじゃない方)」のほうが価値があるとまで思っていた。レット・イット・ビー・ネイキッドとか、アンソロジーとか、バレット・テープスやA/B Roadなどのブートレグのほうが好みだったまである。

 

しかしながら、とある日に「アイ・ミー・マイン」を聴いたことによって評価は一変した。これはフィル・スペクターが好き勝手作ったものではなく、しかるべき「演出」のためのオーケストレーションなのである。

 

アメリカやGBから遠く離れた日本では、ロックというのはある程度舶来のシュミであって、音楽雑誌やライナー・ノーツなどの「神話」とともに味わい、鑑賞することが求められる(フレンチ料理とか茶道とかに通ずるものがある)。しかしながら、その「神話」と音楽的な「評価」がごっちゃになると、ジョンが憎い、ポールは嫌いなどという理由で安易に駄作と決めつけてしまうことになる。音楽理論とかコード進行とかで聴くのもなんかズレている(ビートルズ当時もグスタフ・マーラーの曲進行と重ねる評論家がいた)。もう前の記事で何を書いたか忘れてしまったが、そういう「神話」や「理論」を取っ払って、新たな邪推と偏見で聴いてみよう、というのがこの記事の趣旨である。

 

総論 

このアルバムは、ビートルズを育てたジョージ・マーティンや、ストーンズなどで実績を積みつつあった新進気鋭のグリン・ジョンズではなく、他でもないフィル・スペクターが完成させることで意味があった。そもそも、ビートルズじしんが掲げた「原点回帰」という方針が迷走したのは、彼らがティーン・エイジャーのときに触れた「原点」はロックンロールだけではないのである。フィルの「ウォール・オブ・サウンド」をはじめとするコーラス・グループやオーケストレーションもまた原点であって、エルビスチャック・ベリー由来のラウドなパフォーマンスにこうした「演出」が加わることで、後世のロックに新たな方向性が与えられたのではないだろうか。正直、曲にいらん手を加えられて怒っていたポールも、「ジェット」や「死ぬのは奴らだ」などはLet It Beなしでは生まれなかったと思う。

しかも、この音楽はただのできた曲の寄せ集めではなく、崩壊するバンドを描いた「映画」の「サウンドトラック」という性格を見落としてはならない。「ハード・デイズ・ナイト」とか「ヘルプ」とか「イエロー・サブマリン」では、ビートルズが曲を提供し、マーティンとかがスコアを書いていたのが、ここで初めてビートルズの曲単体で劇伴として成り立つようになったのである。「マジカル・ミステリー・ツアー」の失敗は、おそらくビートルズのマネジメント、そして曲だけでは映画の流れに重要な「演出」「脚色」に、彼らの経験が足りなかったことを意味している。

そこを補ったのが、フィル・スペクターのMGM映画みたいなあの仰々しいアレンジだったのだ。このアレンジゆえに、エルヴィスや若大将的なアイドル映画、ミュージカルだったり、プロモーション・ビデオやライブ映像というものの萌芽にあった60年代から、ドキュメンタリーやノンフィクション的なミュージシャンの「映像」を生み出すことに成功した、という意義があるのかもしれない。Let It Beなしでは「ボへ泣き」もできなかったかもしれんですな。

もちろん、そうしたソングトラックとしてのLet It Beとはべつの、「ゲット・バック・セッション」の残骸としてもこのアルバムは面白い。ポールの当初の「ワンマン」的には、アメリカ受けを狙った「ウエスト・コースト・ロック」っぽいものを目指していたのだろうし(レット・イット・ビーとかワインディング・ロードはイレギュラーな曲目である)、ジョージはくすぶりながらも「サムシング」や解散後につながる垢ぬけたサウンドを生み出しつつあった。リンゴは映画内で「オクトパスズ・ガーデン」をジョージやジョンと協力して生み出すさまに、後年の楽曲提供につながる人柄のよさ、スター気質が現れている。そしてリンゴのドラムがなければビートルズじゃない。

問題はジョンである。「ヘルプ」以降のジョンはスランプで暗中模索している感がある(もともと後ろ向きでヘタレな作風だったが)。そうした苦悩、シンシアやヨーコとのすったもんだに、明らかに成長しつつあるポールやジョージの曲を手伝わされては、ジョンでなくとも「ふざける」「不貞腐れる」「皮肉る」くらいしかできないだろう(ゲット・バック・セッションではジョンの得意なルイス・キャロル譲りのユーモアセンスを活かしづらい)。

サイケデリックロックやフォークからワイルドでラウドな、しかし垢ぬけつつあった70年代のロックへの過渡期にあって、ポールやジョージはわりと素直に流行に乗った曲を書くが、ジョンはインドに取り残されたかのような「アクロス・ザ・ユニヴァース(アルバムのは68年のテイクに手を加えただけだが)」や田舎っぽ~い自嘲的な「ディグ・ア・ポニー」をぶつける。それでも、ルーフトップのパフォーマンスは貫禄であるし、なんだかんだ言ってバンドの大黒柱だ。「ドント・レット・ミー・ダウン」などのひねくれながらも素直な曲は、たぶんジョンが脱皮したかった商業的なラブソングからメッセージソングへの完全移行を促し、バンドがなし崩し的に取り組んだ「アイ・ウォント・ユー」や「スターティング・オーヴァー」など終生続くジョン色、熱狂的ファンを生み出してしまうカリスマ性の復活が見て取れる。

 

つまり、Let It Beは、例えるならばフィル・スペクターの作った醤油豚骨ラーメンであり、ネイキッドはそうじゃない普通の醤油ラーメンを出したつもりが、鶏ガラを出してしまったわけである(しかもCCCDで)。つまっているのかわからないが。

 

創作落語「怪談・加州旅籠(ホテル・カリフォルニア)」

毎度ばかばかしい小噺を一つ。

 

時は70年代、エルヴィスがまだ生きていて、ジョンレノンがショーンの子守りをやっていたころ、まだベトナム戦争の爪痕の生々しいアメリカのお話でございます。ひとりの男が、暗い暗い砂漠の夜道を、バイクで風切って飛ばしておりました。

 

もう夜だから、どこかのモーテルのベッドに潜り込もうってェ算段ですが、あいにくここは砂漠のど真ん中、あるのはコリタスばかり。そろそろガス欠が気になって、こちとらちっとも「テイク・イット・イージー」じゃあいられないってェ丁度そのときに、ぼんやり光る窓明かりが前に見えてきた。

 

「おーい大将、お宿を貸してはくれないかい」と中に入ってみると、何やら訳ありげの、色っぽい女がおるようです。暗がりの中で、その時突然教会の鐘がゴーンと鳴りますもンだから、なんだかブキミで、マリファナにつままれたような、「ここァ極楽かもしれねェが、ともすると閻魔様のご厄介になるかもしれねェ」ってェ気分です。「まあまあ旅のお方、お上がりなんし」と言われたままに、ろうそくの火を頼りに廊下を歩いていくと、騒がしい宴席の声が聞こえてきます。

 

ホテル・カリフォルニア住みよいところ(ア ドッコイショ)

一度はおいでよ西海岸(チョイナ チョイナ)

フリスコ行くならホテル・カリフォルニア(ア ドッコイショ)

電話は4126(チョイナ チョイナ)

 

なんてバカ騒ぎを背に女主人とちょいと話をしておりますと、こいつがただ者じゃあない。ベンツを毎日乗り回し、毎晩若い男友達とお楽しみ。中庭では踊ったり何やら乱痴気騒ぎをしているとのことです。そうこうしているうちに、ウェイターがやってきたので、ワインでも一杯ひっかけようと頼みましたが、「うんにゃ、ウチにはそんなご大層なスピリッツはもうねェだ、69年以来……」と首を振るばかり。これじゃ仕方がないと、69年というと、モンタレーがなんだ、ウッドストックがなんだと思い出話に花を咲かせます。

 

「俺ァあの頃ヒッピーだったんだけどね、やっぱりあそこでみたジミヘンやジャニスジョプリンのパフォーマンス以上のものはこの方見たことァないね。やっぱロックは死んだよ」なんて懐かしんでおりますと、とつぜん女主人と大将がフフフアハハと笑い出します。

 

「お前さんがその時見たっていうジミヘンやジャニスは、ちょうどこんな顔じゃあなかったかい!?」と現れた顔は、27歳で死んだはずのあのふたり!ぶったまげて、たまらず逃げ出すと、フロントでドアマンに呼び止められました。

 

「お客さん、落ち着いてください。チェックアウトは自由ですが、ここを離れることはできませんよ」と止められます。「それと……お前さんがあの時でモンタレーで見たドアーズは、ちょうどこんな顔じゃあなかったかい!?」と見上げた顔が、なんと27歳で死んだはずのあのジムモリソン!

 

フロントのドアマンじゃなくて、ドアーズのフロントマン!

 

「ああなるほど、これが本当のロックダウンか」

おあとがよろしいようで。

 

ロックダウンで生み出されたマッカートニーⅢ、今月12月18日発売でございますので、お帰りのさいはぜひともお買い求めください。