人と人が接し、何らかの表象や指示――いわゆるコミュニケーションが行われるとき、それらが明確に伝わり、実行されるかどうかは不確実である。そのため、コミュニケーションをより「均質的」に、誰でも同じように享受できる手続きないしシステムが整っている…
「邪馬台国がどこにあったか」と同じくらい堂々巡りを続けているのが、「日本語はどこから来たのか」という問題である。考古学的成果やDNA解析などと重ね合わされ、有史以前以後の人類の移動と言語を推測する研究も見られるが、確答は得られていないようであ…
「産業革命、啓蒙革命によって失われたもの」というと、精神的な荒廃、そして公害や環境破壊というペシミスティックな側面が強調されがちである。これらを克服するために、例えば柳田国男は民俗的な伝承を守り伝えようと努力したし、南方熊楠は鎮守の森の保…
このブログでは、伝統的かつアカデミックな言語学とは異なる「言語についての学問」を追究するべく努力してきた。 模範的な言語学では、たとえば「ピエールがポールを殴る」という文を、名詞や動詞、3人称現在や主格・対格という文法的な要素に分解し、同程…
神話学は、「国」「民族」「階級」といった閉域、そしてその比較にとどまってはならない。 「かたる」ことは、常に時間的・空間的に拡張していく性質をもっている。経緯をかたり、「かたる」という自らの行為自体を特権化することは、ひとえに閉じた領域を生…
日本神話は「星」と疎遠であるといわれている。 江戸時代の国学あたりからか、農民は早寝早起きだから星を見る余裕がない、という至極てきとうな決めつけがなされてきた。そのスタンスは概ね現代に受け継がれている。農民は迷信的で純朴無知であるという、近…
この数日間、水銀朱についての研究から派生し、鉄や銅、礬類やナトリウム、硝石、花崗岩や凝灰岩などと歴史の関係を調べていた。 従来の「風土」論は主に気候や植生が中心であった。そこから気質や精神、文化との関連を説明するのであるが、多分に国粋主義的…
辰砂の歴史研究、などという大風呂敷を拡げてしまった。 日本については市毛勲『朱の考古学』や蒲池明弘『邪馬台国は朱の王国だった』、上垣外憲一『古代日本謎の四世紀』、そして何と言っても松田壽男の『丹生の研究』『古代の朱』ですべて出尽くした感があ…
水銀朱(辰砂)の用途 ①「朱」として顔料、装飾的要素に ②「水銀」を精錬し、金をアマルガムめっき(中世以降は鏡の研磨にも使用) ③「朱」や「水銀」を薬として使用(殺菌・ミイラ化) ④水銀と硫黄から化学的に合成する過程を、錬金術や神話などシンボル化 …
インドや中国に比較して、ヨーロッパの古代・中世における金細工や鍛冶の歴史の追跡は困難である。一応水銀によるアマルガム技術は遅くても紀元2世紀のローマに存在していたといわれてはいる。 思うにそれは金属加工の技術が「悪魔」と結びついていたこと、…
一般的に、西洋は現実主義、東洋は神秘主義というイメージが根付いている。しかしながら、中国は現世利益的、インドでは思弁的、さらに道教は理想主義、儒教は現実路線……など、言ってしまえば何とでも言えるのであって、そのイメージは産業革命、帝国主義以…
歴史にかぎらず、学問は現代の鏡である。なにか「現代に通じるもの」を嗅ぎ取ったからこそ、深く掘り下げて研究が行われる。書籍や論文で浸透する学説、というものは、時代精神、時代の要請にかなったものだからこそ、その影響力を認めざるを得ない。そこに…
辰砂(水銀朱)にまつわる技術の歴史は、シンボリズムの歴史と言い換えることができる――農耕文明において、金鍍金技術に必要な水銀は、金銀で飾られた聖地、神々といった信仰の対象のために必須であった。さらに、朱の耐腐食性、不老長寿の効能から薬、顔料…
歴史研究は時代の鏡である。研究者は周囲の環境から何かしら影響を受け、みずからの研究が歴史という大河に「一石を投じる」「波紋を広げる」ことを願う――世の中の関心に少しでも寄与できるように、みずからの得た知をフィードバックしようとする。 しかしな…
空海と水銀、鍍金技術の関係 丹生明神……水銀 虚空蔵加持……黒雲母、ウナギのタブーと「ヲ」を持つ蛇のアナロジー 尾張-美濃‐近江‐山城-丹後:辰砂文化圏と 大和-葛城(生駒)-和泉-紀伊(熊野)-伊勢:辰砂文化圏との、 平安期における統合 その前段階として…
これの続き。 matsunoya.hatenablog.jp 言語は「信じられていること」の体系である。それはちょうど貨幣や金券のように、その共同体の空間的「境界」と時間的「限度」を維持しながら表象され、やり取りされている。貨幣だと「信じられていること」は、貨幣だ…
吉野裕子『陰陽五行と日本の天皇』の中に、中臣寿詞の解釈が出てくる。 そこで問題とされているのが、天孫の統治に必要な「天津水」を得るために、秘義とされている「韮と竹叢」の意味である。玉櫛を占庭に挿し、祝詞を唱えると韮と竹が生えてきて、そこを井…
この記事は前の万葉歌謡史の補完のようなものである。 matsunoya.hatenablog.jp matsunoya.hatenablog.jp どの国のどの文化もほとんどは「伝統」「慣習」「古典教養」として農耕文化を基礎としている。ヘシオードスやウェルギリウスの農耕詩、中国の詩経、そ…
ザ・ビートルズのザ・ビートルズ――通称ホワイト・アルバムは2枚組(アナログ盤では4枚組)のアルバムである。曲数がやたら多いせいで、1枚にまとめきれなかったのか、オレならこの曲を抜く、という議論がたびたび起こる。「ビートルズに捨て曲無し」の立場を…
ご愛読の無識者(むーしきしゃ)の皆様 ツイッターでも告知しましたとおり、この度マツノヤ財団 知域総合人文学研究所は名誉フェロー号を愛読者全員に授与しております。 無料、無制限、無駄の三無がそろっており、特典としてこのブログ及びnote、pixivの無…
文系研究者は基本的に無名である。無名だと出版物を出そうにも出せない。研究者としての成功や科研費やなんだのやりくりのために、大学や学会のアカデミズムに歩調を合わせることとなる。そうすると内輪での評判はよくても、一般の知名度が皆無となる。これ…
ブログご愛読者の皆様へ いつもご声援とご愛顧を賜りまして誠に感謝いたします。 マツノヤ人文学研究所は、この度11月11日の設立より半年と20日くらいを迎え、より研究内容の深化と発展を期すべく、2020年6月1日付けで名称をマツノヤ財団 知域総合人文学研究…
私のスタンスは、国語とか民族語とかいう概念は近現代の虚構である、という立場である。従来古語とされるようなやまとことば、さらに縄文語や弥生語とされるような再建も、まったく国民国家の便のためにあるようなもので、古典教養がコミュニケーションとし…
現在わたしが取り組んでいる研究を端的に言えば、「西洋錬金術と道教煉丹術、および日本神話の比較と、その言語的表象の研究」である。 ここ半年の実験的な原稿から、やっとこさ何か成果ができそうになった。基本的には以下の記事を膨らませたものである。ど…
ことばが具象的な表象から抽象的な表現に移行する過程を、一冊の本にまとめてみたい。 神話上の神格や怪物が、卑俗な昔話、迷信を経由して、日常的な科学知識や現象に移行する過程は、文法の大衆化、文語から口語への選好の変化と軌を一にする。長いスパンの…
言語を研究するには、伝えるための文法構造と伝えてきた文化体系とを総合的に見ていかなければ、全体像をつかめない。 およそ世に行われている研究は、どちらかを間に合わせで補い成り立っている。科学という文化でも、政治経済という文化でも、それを伝えて…
今回の男子の本買い 古橋信孝『万葉歌の成立』、講談社学術文庫、1993年(原著1985年) アンドレ・ヨレス『メールヒェンの起源』、講談社学術文庫、1999年 やはり講談社学術文庫やちくま文庫は、古書に限る。 『万葉歌の成立』は、万葉集の歌を沖縄の神謡や古…
このブログでは何度か言語について取り上げてきた。「ポスト・オリエント学」「情報文化圏交渉比較環境人文学」といういささか皮肉めいた題名で研究してきたことは、歴史や文学のみならず、人間の行動の規範となる科学全般が、いかに社会集団の地域的、通時…
持続的、持続性、持続可能性ということが煩く言われるようになって久しいが、実現されているところを見たためしがない。それどころか不思議と、どの界隈においても持続すればするほどボロが出る。もっとも、政治家がよく不快なくらい繰り返すようにそれを「…
タイトルははっきり言って皮肉である。SNSとかあっても、使う人間が8割が凡庸、2割が怠け者なものだから、じつはスマートにもソーシャルにもなっていないのである。 コロナ禍以来、「若者の消費」を抑えろ、抑えろという論説が目に付くようになった。送別会…